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ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

西郷と大久保

2005年04月25日 09時54分18秒 | 祭人
政治の世界というものは二つのタイプに分かれるという。西郷タイプか大久保タイプだ。
西郷は、パイオニア、人望も厚く人の気持ちを熱くさせる何かをもった、いわゆるカリスマ性
豊かな熱血漢である。怒涛のようにめまぐるしく世の中が動く時、人心を一つにまとめる力は
彼の右に出る者は居なかったであろう。しかし、世の中から共通の敵が消え、目的が達成され
た後の西郷という人物は必要のないタイプになってゆくのだ。

大久保タイプは事務屋である。常に、ナンバー2の位置に身を置いて、決して矢面には立たな
い。激しい風当たりを上手にかわしながら集団を後ろから操作する、いわゆる策士である。
細身の体で何喰わぬ様相ながらも、ちゃんと自分の着地地点を用意しながら動く、冷血な人物
である。そして、必ずと言っていいほどに、こういうやからが生き残るのだ。

政治の世界では、のらりくらり、右や左の判断をしないで、優柔不断と見せつつも裏ではしっ
かりと自分の位置を確保している奴は政治生命が長い。
それは、明治維新に限らず日本という国の場合、いつの時代にもこういう形で終始してきた。
ブルトーザーのように土砂を強引にかき分ける先駆者も欲しいが、最後は、丁寧に後処理をや
ってのけて整地してゆくローラーみたいな人物が漁夫の利を得るのだろう。
多くの人が西郷は好きだと言うだろう。大久保を好きだという人は少ないのではないだろうか。
二人は、一方は政治の共通の敵とされて抹殺され、他方は不平分子に暗殺されて命を落として
いる。

さて、変革を要求される時代には西郷の出現を人々は望む。
変革は、過去の延長線上には無い。時に、改革は大きな労力を要し痛みを伴うものである。
最初から事務屋が出てきて変化して行くものではない。その程度で済むならば、それは変革で
はない。
渦の中にあって、冷静沈着にことを推し進めるには忍耐力が欲しい。白黒の態度を明かさずに
ことを成就させることは容易なことではない。時には友人をも騙しながらも意中の大事をなし
とげるなどということも尋常なことではない。
ただ、渦の外ではなかなかことを成し得ない。

私は、何も一国の政治を語ろうとしているのではない。
伝統ある「祭り」をどのように改革するか・・・それを言いたいのだ。

祭りは地域と共に活きる! その1

2005年04月15日 09時00分07秒 | 祭人
伝統の祭りも地域があっての「ものだね」なのだ。何度も言い続けていることだけれど、地域の経済に裏打ちされて
地方の祭りは伝承されてきた。今、そこにあるということは、それだけ先人達が陰に陽に努力をかさねた「おかげ」
によって成り立っているのである。
昔、祭りといえば「ハレ」の舞台だったのだ。この地方にもそいう考え方は残っているけれど、もしかすると薄れて
始めているかもしれない。要するに、日頃質素な生活をしていても、祭りの日にはパーッと金を掛けて祭りの準備を
したり、晴れ着を着たりするものだ、ということである。だから、地元の商店はそれによって潤い、また、反対に、
「これで祭りを賑やかにやってください」という意味で、寄付(花)をうったのだと思う。

ところが、地元生え抜きの商店は瀕死の重傷にある。外部からやってきた資本に駆逐されて、青息吐息なのだ。
地元の商店、企業に元気が無い。従って、祭りを支えてきた地元の経済が振るわないために、いろいろと祭りを執行
する意味で影響がでてきているのだ。目に見えないところでも「ジワッと」当事者に経済的な負担、物理的な負担を
余儀なくしているようだ。祭りに参加する当人たちは自腹をきって飲食したりしているとも聞く。私たちが現役の
20年くらい前には、そんなことは考えられないことだった。

大型店はやりたい放題だ。地域の祭り景気を大ざるでかっさらって行く。祭りのまかないも大型店にお金が流れる。
だが、これらの進出企業は何等地元に還元をしていない。まして、「花」をうつようなことも無い。まさに、いい
とこ取りの商売なのだ。こんなのをこのままにしていていい訳がない。

私が提唱するのは、そういうことを含めた「金の取れる組織」づくりなのだ。口は出さないで、金を出してもらいたい。
お祭りの経済効果をもろに享受することのできる企業は「寄付」をするべきである。そして、単独の若連が寄付を
もらいに行くのではなく、町ぐるみで「寄付してください」といえるような組織であるべきなのだ。
大きな祭りは、そういうふうになっていると思うのだが・・・。

単年度制である若連組織が中心となる祭りではなく、複数年で話のできる全市内的な祭りの組織を早急に作りたい。
そうしないと、祭りが立ち行かなくなって来ているのだ。


祭りに貢献している企業ランキング公表・・・やってみるかいな!

ブログのパワー

2005年04月11日 09時07分31秒 | マイ・ブーム
ブログのパワー

アメリカで大ブレークしているブログだ。先日、このブログの社会に与える影響の大きさを
内容とした番組がNHKで放映された。
特にジャーナリズムとブログの違いについて登場人物があれこれ意見を言っていたが、アメリカと
いう国では、ジャーナリズムによって倒れた政権、失脚した政治家が多かった。
しかし、それがここにきて、ブログがそれにとって変わろうとしているという。

大統領制のアメリカの場合、自分の知る範囲でも、そうとう世論を上手にコントロールする
ような政略が分からない形で行われたきた。また、一般の人たちが知ることのでずに終わった
謀略も多かったのではないかと思う。

ブログの場合、ジャーナリズムと違って一般人が自由に参加できるマス媒体であるわけだ。
そして、発言者の意図をより明確に、より強烈に伝えるためのツールが備わっている。
ある意味で、ジャーナリストの目を通して発言される言葉よりも、透明性が高いかも知れない。
だが、問題もある。発言者が匿名であることや、発言の信憑性についての保証はない。

日本でも、にわかに人気が出てきている。
興味深いプログサイトも多い。単なる日記に終始しているものもおおけれど、有名人による
ブログは興味深い。

ブロブのパワーは強大だ。
時には世論を先導する震源地となることもあると思う。
一般人であろうが有名人であろうが、同じ土俵で発言できる。
ある程度の知識さえあれば、また、発言内容に内容のあるものでありさえすれば、世の中に
波紋を起こすことができるのだ・・・。

自分の日記でありながら、みんなの日記であるブログ・・・
今、私のマイブーム だな。

老人も荒野をめざす?

2005年04月04日 15時59分36秒 | デジャブー
同じ小説を読み返したことがあるだろうか。しかも、30年も過ぎてからの話だ。
つい最近、古本屋で五木寛之の「青年は荒野を目指す」を見つけて求めた。
この本、私にとっては重要で意味のある本なのだ。
しかし、そういう重要な本の割にはかわいそうな値段で、105円だった。

最初にこの本を読んだのは高校生の時だった。
何ゆえにこの本に出合ったのかは忘れてしまったが、その後の私の生き方に相当
影響を与えた本なのだ。
ただ、自分の意気地の無さゆえに、この本の中に出てくるシベリア鉄道の始まる
若者の旅は実現しないまま、私は老人の部類に入ろうとしている。
この本を読んで五木寛之のファンになった。その後出版された殆どの本を読んだ。
そして、それらの本の中に紹介される世界中の町々を仮想世界の中で旅をした。
また、登場人物によって男の生きかたなどについてもアドバイスをもらったわけ
だ。それは、人生の重要な局面で何度となく教えられたものだった。

ところで、同じ本を時を隔てて読んで同じ感動を覚えるだろうか。
鮮烈なインパクトを受けるだろうか。
やはり、それは違っていたし、無理というものだ。若く多感な時代に読んでこそ
共鳴できる部分もおおいはずだろうから・・・。
しかし、歳を重ねなければ分からないことも多い。

北欧の画家・ムンクを教えたくれたのも五木寛之だった。
子供の頃から絵を描いて育った私だが、ムンクのあの橋の上の「叫び」には強烈
な印象がある。本のタイトルは忘れてしまったけれど、ハードカーバーの表紙に、
あの気持ちの悪い人物が描かれたものがあった。
その頃の私には、あの人物が何ゆえに叫んでいるのかが分からなかった。折りよ
く神奈川県立美術館で「ムンク展」が開催され、大学生になっていた私は横浜の
親戚をベースにして金沢八景まで行ったのだった。

大人になってから、再度ムンク展を見る機会があった。
今度は、絵から受ける印象というものは違ったものがあった。人間の深い深い
愛情とか憎悪とか、そういうものを絵から感じることができた。

同じように、歳をとってから同じ本を読み返す場合、同じ文字を辿ってゆくのだけれど、
受け取れるものが、沢山になった、と思った。
ドキドキした感覚はないけれど、味わいのある言葉として受け取れるのは、や
はり、自分が通ってきた道があったからなのだろう。