ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

私の好きな人

2008年05月20日 06時27分31秒 | 祭人
本棚から久しぶりに石津謙介氏の世界を書いた本を取り出して読んでみた。
(1993年、「VANヂャケット博物館」扶桑社刊)
石津謙介氏は、あの、アイビールックの産みの親、ファッション界のカリス
マと呼ばれた人である。
本の中には「私はファッションを作ったのではない、風俗を作ったのだ」と。
単に企業が売れる着物を作ろうとしたのではなく、着る事という考え方その
ものを創り出したのだ。私も学生時代にボタンダウンのシャツ、お店でくれ
る茶色の買い物袋、斬新なロゴなどにあこがれたものだった。

自分のやっていることがわからなくなると、時々この本を出して眺めている。
私は何のために仕事をしているのか、生きているのか、と。

ネット上で石津謙介という名前を検索してみたら面白い記事が載っていた。
2001年の東洋経済に掲載されたご本人のコメントに、「家は君の分身」
というのがあった。衣食住というが、そこそこの金ができれば着る物や食べ
物に気を使うようになる。しかし、究極は安息の場所である家にこだわるべ
きであると言っている。

あれがおいしい、この服が格好いい、位までは言ったことがあるかも知れな
いけれど、私の場合、家まではまだまだたどりついていない。
もっとも、この記事の中で言っていることは、豪華な家に住めといっている
わけではなく、安息の場所として「借家やアパートだっていい、自分の好き
なものに囲まれて暮らしなさい」と言っているのだ。

明治44年生まれの石津謙介氏、平成17年、享年93歳で他界されたが、
その考え方は今も生きているし、そして、まだまだ新しい。
時代を通して通用する考え方を残せたことは、まさに風俗を作ったといえる
わけだ。並みの人間ではなかったのだ。文化は一代にしてならず。さすがに
育ちのいい、しかも、波乱の時代を生き抜いた別格のセンスの持ち主だった
ことに違いはない。ライフスタイルにこだわり「病床にあってもパジャマを
着ることを拒み、三宅一生の服を着て息をひきとった」という。

日々の生活に追われて、何をやっているのだか分からない毎日だ。
今日の延長線を明日にしたくないと思っても、凡人にはなかなか実現でき
ない。残り時間が少なくなってきた私だ。その時間内でどのくらいのことが
できるか分からない。昔読んだ本に「歳をとると、何ができるかではなく、
何ができないか、と考えるようになる」と。

鼓舞

2008年05月16日 08時21分57秒 | 祭人
鼓舞(こぶ)とは、気持ちを奮い立たせることを言う。
戦争などにおいて味方の士気を上げることに太鼓が使用されたり
したのが主な用法なのだ。
元は「舞いながら太鼓を打つこと」という意味らしい。

私の持論なのだが、太鼓を打つ速さという要素が、この鼓舞すると
いう意味で大切な部分を占めていると思っている。
昨年出版したライブ版「二本松提灯祭り祭り囃子集」の録音を聴き
比べてもらいたい。いわゆる「のれる囃子」と「のれない囃子」が
歴然としている。最後まで聴いてみたいと思う囃子はゆっくりだ。

超高速での早打ちでリズムが乱れない打ち手をあまり知らない。
(私が知る限りで、この40年くらいの間で2人くらいか)
小太鼓の速さを意識しつつ、笛を導きつつ、そして早く打つことは
至難の業なのだ。大体の大太鼓の打ち手は、自分の速さに狂いを生
じて曲にならなくなってしまう。例えば、最初の打ち出しは良くて
も持続できずに、自分の意図とは別に早さが落ちてしまうのだ。
結局、他の楽器がついて来れずに、あるいは、リードできずに、や
り直しで最初から打ち直すことになる。
それを本人は自分の腕が未熟であることに気づかないだけなのだ。

はっきり言って、早打ちは乗れない。
自己満足で決して「鼓舞すること」になっていない。
二本松提灯祭りのお囃子の場合、参加している若連、小若だけでは
なく、周囲の人たちをも興奮の渦に巻き込むことで祭りが盛り上が
って行くものなのだ。俗にいう「わっしょいギャルズ」たちの数も
単に格好のいい若連がいる町内に多いだけではなく、乗れるお囃子
を演奏している町内にその数が多いように思える。
彼女達が呼応する掛け声の盛り上がりは、あきらかに、正確で力強
くリズムを刻むことの出来る囃子において時にエネルギッシュだ。

何度か書いたことがあるが、化学的な裏づけをとったわけではない
けれど、私は母親の胎内の心音と太鼓の音は一緒なのではないかと
思っている。泣く子供に心音の録音を聞かせるたら泣き止んだとい
う実験があるけれど、その心音のスピードは決して速くはない。
毎分60から140位がその範囲だと思う。筆者も大太鼓の経験者
だが、この分を読まれた囃子方の人が居たら試してもらいたい。
太鼓の革に自分の打つ撥の感触を確かめながら、きっちり、ゆっくり
敲いてみてはどうだろう。

お囃子とは、正に「囃すこと」なのだから。

他の祭りも見に出かけよう

2008年05月01日 11時12分48秒 | 祭人
井戸の中の蛙ではまずい。
他の有名な祭りに出かけて、いいところは吸収したほうがいい。
大きな祭りは長い歴史をもつものが多い。
祭りが続けられてきたことは、継続することに値する何かがあ
ったから今日にその伝統を引き継いでいるのだと思う。
観光客がたくさんくる祭りもある。
観光客を上手に受け入れている祭りもある。

何ゆえに多くの人が見に来るのだろうか。
観光客は、その祭りに参加している人たちが本気で祭りをやって
いる姿を見にくるのである。非日常的な出来事として、観光客
自身の生活の中に無いものを見にやって来るのだ。
例えていうなら、すばらしい温泉旅館に泊まってみたいと思う
のは、日々の生活で味わえない時間を、たまには奮発して、贅沢
な時間を過してみたいと思うから、はるばる出かけて来るのだ。
だから、観光客自身の生活の中にいつでもあるものなら、わざ
わざ遠くまで出かけて来ることはないのだ。

二本松の祭りのすごさは、美しい提灯の景色と、類をみない
洗練されたお囃子にあると思う。
そして、それを本気で祭りに参加している姿が見る人に感動を
与えているのだと思う。

だが、二本松の祭りには酒が入る。
時々、自分を失って醜態をさらしているのを見かけることがある。
年に一度のハレの舞台、一段と格好のいいところを見せてもらい
たいものだ。酒に飲まれて無様な姿をわざわざ見に来た観光客は
幻滅して帰ることになる。
酒を飲むなとはいわないけれど、見られている自分を意識しても
らいたいものだ。

激しく屋台を曳き回す祭り、一糸乱れぬ曳き回しで魅了する祭り、
そういう祭りを見ると、組織がしっかりしているのだろうと思う。
例えば、秩父夜祭りの警備体制などは特筆に価する。
神社、消防と警察、観光協会の連携が旨く行っているのだろう。
一晩に30万人もの人出をこなしている。
そういうところを、是非二本松の人たちも見て来てほしい。