ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

人生の扉

2021年12月01日 20時37分25秒 | デジャブー
秋の夜長 
 
竹内マリアさんの「人生の扉」
歌詞がいいね
彼女の少し鼻にかかったような声が、好きだな
この歌、こんなにもいい歌だったかな・・・
そうだ、歳を重ねてわかることがあるなぁ
 
YouTubeで見つけた動画
  満開の桜のシーンから始まる
どうさなら、ふる里・霞ヶ城の桜をバックに聴きたいな・・・
 
 
I say fun to be Twenty
You say it's great to be Thirty
And they say it's lovely to be Forty
Be feel it's nice to be Fifty
I say it's fine to be sixty
You say it's alright to be Seventy
And they say still good to be eighty
But I'll maybe live over Ninety

ゴム跳び

2021年11月14日 22時46分16秒 | デジャブー

今「ズロース」を知る方は少ないのでしょうか?
女子の下着です。「Pン○○」は普及していず、少年の好
奇心ナンバーワンかも知れません。語源は知りません。

少年時代の遊びで、女子の遊びに「ゴムとび」がありまし
た。この遊びに男子は混ぜてもらえませんでした。
当時は男女区別がかなりで別々に遊んでいました。
輪ゴムを編みつなぎ、高跳びのバーを作り、飛び越えて遊
ぶのです。少女の遊び着はスカート。その下はズロースで
した。そのまま、跳びこえるとスカートの裾が邪魔になり
ます。また、中には超えるのに側転でやる子も居たので、
スカートの裾にはさみ込むのでした。

好奇心のかたまりは、仲間に強要され?実現不可能なミッ
ション「スカートめくり」に挑戦させられました。と言う
より、学校の廊下で仲間に思いっきり押され、「見事?」
スカートの中へ直行。

めくられる女子の方も、人気のバロメータでした。
(人気の無い子はやられない)
そして、少年側にも(正式なルールがありまして?)

直前に「スカートめくりっ!」の宣言が必要でした。
(バシッ!これはビンタの音です)


学習塾

2012年02月16日 16時49分41秒 | デジャブー

帰りが遅くなると二本松駅前の塾には数台の車が待機している。
これって、勉強を終えて帰る子供たちを親が待っているのだ。
やっぱり、お金をかけるだけのことはあるのだろうか。

統計では、東大へ進学する子供の親は高額所得者が多いという。
合格率はお金をかけられる量に比例するのかな。

で、進学して、就職して、社会人になる。

しかし、家にもどってくるかどうかは分からない。

そうだ、今日は故金正日の誕生日だったワイ! 関係ないか(笑)


THE CAT

2011年06月12日 09時22分13秒 | デジャブー

私は猫があまり好きではない。

だが、気性は好きだ・・・、と思う。

何故なら、自分に正直だからだ。

何か欲しい時以外はひとにこびることはない。

精神的に自立しているのだ。 そこのところが犬と違う・・・。

店の前にやってきた野良君だ。

警戒している・・・。 まるで誰かみたい・・・。 口元がそっくり・・・(フフフ・笑)


OYAZI の 背中

2008年11月22日 07時49分53秒 | デジャブー
親なんていうものは背中が見えているくらいで丁度いいのかもしれない。
四六時中子供が転ばないようにすることなんて不可能だ。
先に死ぬだろう親は、いつまでも手を差し伸べることはできない。

今の世界は、初めから形の無いモノに余計な価値を与えすぎているようだ。
もともと泡は体積が少なかったはず、元にもどってしぼんだだけのこと。
マネーゲームの巧者に灸がすえられたのかな。
こんな時こそ、不変の価値とは何かを見つめる時なのだ、と思う。
目先の利益に囚われるな・・・(偉そうに)

おい、 的の彼方を射よ!

ご先祖さん

2007年08月09日 08時11分59秒 | デジャブー
今日は祖父の命日だ。
8月9日。長崎原爆投下と同じ日にあたる。
子供の頃に祖父は亡くなった。お葬式は暑い日だったと思う。
設けられた祭壇には多くのお供え物が上がっていた。
御菓子などが貴重な時代。東京の叔父が持ってきたガムを大量に食べた。

祖父は無学だったけれど研究心の強い人でアイディアマンだった。
子供の頃、仕事(鉄工所)のための実験をしているのをよく見かけた。
昨晩、古い文庫箱を整理していたら昔の葉書が出てきた。
大正9年、祖父が東京から自分の父に宛てたものだ。
叔父たちに聞いた話だが、新しいものを見るためによく東京へ出かけたようだった。
出かければ大分長いあいだ帰ってこなかったらしい。
葉書の内容は、見るものについて驚きの様子が鉛筆で細かく記されていた。
カタカナ混じりの一途な内容だ。

盆が近くなると昔のことを思い出す。
代々職人の家柄だけど、今の私は、祖父や父の足元にも及ばない。

自殺する経営者

2007年02月15日 09時36分43秒 | デジャブー
自殺について考えてみる。

私の半生のなかに自殺した知人が数人いる。
よく「死ぬほどつらい」などという人があるけれど、「死ぬことより
辛いこと」などあるはずはない、と思う。
自分を殺すことは、本人にとってどれほどの恐怖であるか、私には
想像することができない。

例えば、家族を残して死に行く場合、そんな無責任なことができるの
だろうか。例えば、商売に失敗して多大な借金を残して会社の社長が
死んだら、残された家族、従業員はどうなるのだろう。
そういうことを考えないから、あるいは、考える余裕すらないから
自分を殺して目前の辛い局面から逃げるのだろうか。

残された家族は想像を超える苦労が待ち構えているハズだ。
どのような気持ちで故人の葬式を出すだろうか。
どのような気持ちで商売の取引先などに対処するのだろうか。
そして、何よりも、家族が自殺した事という事実を背負って残りの
時間を過ごさなければならない。親は、配偶者は、子供は、どうこの
事実を受け止めて生きてゆくのだろう。

日本の場合、世間ていから自殺をする人がいる。
世の中の大きなうねりに負けて商売に失敗する。成功する人も居れば
その陰で失敗する人も多い。それを罪悪視される風潮があるために
自らの死を選ぶのだ。
今の総理大臣が「再チャレンジのできる日本」をうたっているが
馬鹿で無益な論争に時間を使って急がれる対策が打たれていない。

もう大分前になるけれど、親しくしていた友人の経営者が二度目の
自殺を計った。最初は発見が早く助かったが、二度目は確実で防げ
なかった。家族が見限って去ったあとに死を選んだ。
私は、今でもその友人の墓参に行っていない。
いや、行けないでいる。

紙一重

2007年02月10日 10時09分57秒 | デジャブー
友人に絵描きが何人かいる。

絵描きとは、独創性を追い求めることに命を懸けている。
経済とは無縁の世界だ。いや、対極と言ってもいいかもしれない。
他人がやってきた路線を行くことは亜流である。
どこまで行っても、結局、前人の亜流で留まることになる。

線や色、形、構成など、人の踏んだことのないものを
追求し続けている。だから、常人では考えられない事をする
こともある。狂気とギリギリの境まで行くこともある。

新宿の画廊でのこと、友人の個展に別の絵描きがやって来た。
最初は和気藹々の感じだったが、事が本人の芸術の核心にふれると、
やおら喧嘩になった。殴りかからんばかりの虎と竜といったところ
か。酒席に移っても論争が続き、話は夜明けまで続いた。

絵描きになりたいなどと思ったことがあったが、本物達に出会って
鉾を収めることにした。
彼等のように常識を覆すような信念を持ち続けることができないと
思ったからだ。例えば、鉛筆1本でたたみ10枚もあるような
大画面に延々と真っ黒にするまで線を描き続けられるだろうか。
来る日も来る日も・・・。同じような絵だが、倉庫いっぱいに
なるくらい書き続けている。

ある抽象作家が「これは何を描いたのですか」という問いに「何を
描いたかわからないように描いた」と。半分冗談ともとれるが、
本人は真面目にそう答えた。
「うちの孫でもコノくらいは描く」と言われるような幼稚に見える
絵もある。だが、それを一生かけて描き続けることができるかと
いうことである。

独創とはおそろしい。
孤独だし、家族に見放されることもある。
経済観念をもった瞬間に絵がダメになることもある。
厳しい。

絵描きを育ててこそ、本物の画商なのだが、その数は少ない。
画商などとは簡単に言える職業でもない。
絵を少し抱えても単なるその絵描きのファンに過ぎない。

その絵描きに何をしてあげたかが問題だ。
そういう意味で、私は画商ではなかった。

映画少年

2007年01月26日 14時14分05秒 | デジャブー
昭和33年は二本松にとって意味のある年であった。
二本松市制施行の記念の年であり、盛大に提灯祭りも挙行されたのだ。
当時のお祭り案内パンフレットを見ていたら面白いことが印刷されていた。
昭和33年に上映されていた映画が載っており、調べてみたら面白かった。
もう少し書き進めてみたくなったので書いてみる。

もしかしたら、子供の頃からの映画少年だったのかも知れない。
昭和33年の二本松提灯祭りのパンフレットをながめていたら、当時上映されて
いた映画が数本載っていた。実際にその映画を見にでかけたかどうかは記憶に無い
けれど、市川右太衛門の旗本退屈男シリーズの一本は観ているとおもう。

この昭和33年(1958)の旗本退屈男は特別の映画だったようである。
東映としては、市川右太衛門の出演300本目にあたる同作品としておおいに力を
入れたようだ。なにしろ、当時の看板スターが勢揃いで出演している。

片岡千恵蔵、中村錦之助、進藤英太郎、山形勲、月形龍之介、大河内伝次郎
大川橋蔵、東千代之介、大友柳太朗 とまあ、その後の日本映画界を代表する
ことになるそうそうたるメンバーである。悪役で有名だった山形勲。この人、
ちゃんばら映画の悪役には無くてはならない人だった。のぺっとした顔ときたら、
ハリーポッターの悪役じいさんもカナワナイだろう。

さて、二本松には映画館が二つあったのだ。「会館」と「東宝」
子供ながらに印象的だった映画も多い。
「にっぽん昆虫記」は電柱に映画のポスターが貼ってあった。
何やら、おっさんが若い女の乳房にむしゃぶりついていた。
「人間の条件」これは、多分今で言うR指定だったハズ。しかし、何故か連作の
何本かは観ている。
そして、大好きだったのは、時代は下がるけれど「小林旭」である。
渡り鳥シリーズは全部観たかもしれない。どれも同じようなキャバレーでの乱闘
シーンがあって、波止場とか郊外でのラストシーンときたら「宍戸錠」との決闘
になるのだった。そして、寒い背中を見せながらアキラは去って行くのだ・・・。

映画館を出るときは、スター気分(小学生で?)
何か天下を取ったようなウキウキ気分だったのだ・・・。


干し柿を作ったよ

2006年12月12日 08時23分54秒 | デジャブー
昨年に続いて干し柿を作ってみた。

今年の柿は小さかったので出来上がったものもやはり小さかった。
去年のものと比較して半分以下の大きさ、あかちゃんのこぶしくらいだ。

干し柿は数を食べれるものではないが、おいしい食べ方がある。
クリームチーズにをはさんでいただくのだ。
濃厚な味は洋酒系のお酒にばっちり。
安いチリワインだってロマネコンティ?(←飲んだことないけど)

干し柿の作り方は簡単だ。
柿の収穫は実に付いている枝を必ずT字型に残すこと。おおざっぱにもいでから
剪定はさみで丁寧に残してゆく。
次に皮を剥くときには、ヘタのまわりを包丁で一周させる。
そして、皮むき器で残りの皮を除く。
ひも(専用のものも売っている)によりをもどしながら枝をはさんで90度回転。
最後の仕上げに硫黄で少しだけ燻製にする。
このいぶし作業で柿が黒くならないのだそうである。(理由は分からない)

昔は、吊るす前にわらで上下にはさんでひと乾きさせたそうです。
わらについている菌が柿の表面に白い粉をふかせる、そうである。

今年は寒くなるのが遅かったが30日あまりで写真のような干し柿が完成した。