賢く楽しく逞しく

晴耕雨読の日々を、面白く楽しく、
綴って行きたいと思っております。

鷹の爪、今年の初採り

2016年08月31日 | 有機栽培


鷹の爪は、トウガラシの中でも辛い方で、あまり使いませんが、

漬物などにちょっと入れると、漬物が美味しくなるのが分かりますね


一冬に使う分と、多分欲しがるだろう人々の、分量を予想して、

小枝毎奇麗に色付いたものだけを収穫します。

これは、収穫して来て、葉っぱを取った状態で、少し天日干しをします。





この写真の状態では、奇麗に色付いたものと、赤くなる前の茶っぽい色を

したものと、まだまだ若く緑のものが混ざっているので、小枝毎の収穫はせず、




小枝全体が、きれいに色付いたものだけ、収穫してきました。



もう一つの楽しみは、実を収穫した後、花が咲いても摘み取り、若い柔らかい

葉を育てて、つくだ煮にします。

これが結構好きなんですよ


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「終戦日が半年早かったらなあ」エピローグ

2016年08月29日 | 日々の出来事


今日のタイトルは、8.15の終戦記念日のタイトル「終戦日が半年早かったらなあ」を、

引用しています。

この戦争で、桁違いに犠牲者が出たのは、終戦前半年に集中していることに、

気付いたからなのです。


この半年にどんな重大な転機があったかを、前回まで私なりに分析して、

記事にしてきました。



今日は、終戦まで十日間を、日本の動き・連合国のうち米国、それとこの戦争に

本来関係なかったソ連が、日本にどんな影響を与えたか
を、総括したいと思います。





日本が、公式に御前会議で、終戦のためのアクションを起こしたのが、6月22日でした。

しかし日本はここで大チョンボをします。

四月初めに、「日ソ不可侵条約」破棄を通告して来たソ連に、終戦の仲介を頼むのです。

一か月たって、7月26日連合国は、日本に対し、「ポツダム宣言」(降伏要求最終宣言)

を発します。

日本は、ソ連に仲介を頼んでいるので、期待して待つこととし、ポツダム宣言を

実質黙殺してしまいます。


返事をしないで、待ってくれるだろうと、安易に考えるほどの体たらくです。






アメリカでは、七月末二発の原爆の製造に成功しました。

開発責任者は、砂漠の実験ではなく、敵国に使ってみることを目論んでいました。

大統領に、一発目は京都にしたいと提言しますが、民間人が多いところは、

後に、国際的な批判を浴びる事になると、承認しません。

原発開発責任者は、「広島は、軍の設備がほとんどで、民間人は少ない」と、

嘘の進言をするのです。

大統領はそれを信じて承認し、結果8月6日原爆を広島に投下となるのです。

名刀を手にしたバカ殿が、人を切ってみたいと辻斬りをやるのに似ていませんか






火事場泥棒を企んでいたソ連は、8月末頃対日戦線に、参戦する心算でいたのですが、

米国が、とんでもない爆弾を作ったことを知り、即参戦を決め8月8日、

日本大使館に宣戦布告をし、8月9日早朝、全軍が日本の前線に総攻撃を掛けます。

日本も米国に宣戦布告したとき、米国への通達より、真珠湾攻撃の方が早かったと

聞きましたが、ソ連は、大使館の周りの電話線を全部切断し、本土に通知出来ないように、

仕組んだのです。


八月に入って、米国による原爆は二発、ソ連の満州北部侵攻による戦死や

開拓団の民間人への強姦や殺人、シベリヤ抑留当初30万人としていましたが、

76万人に及んだと判って来たようです。

北方では、北方四島、更には北海道の分割統治も企んでいたようで、

これは米国の反対でかなわなかったが、米国は、代償として抑留者(捕虜として強制労働)を、

黙認したとの説もあります。


これだけ書いても、書き尽くした感は全く有りませんが、結構長くなってしまいました。


最後まで、お付き合いくださり有難うございました。


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無為無策・終戦に重要な一か月

2016年08月27日 | 日々の出来事


昭和20年6月22日の御前会議で、ソ連に終戦の仲介を依頼すること を決め、

特使をソ連に送ったが、ソ連は既に国連に参戦する了解を取り付けており、

日本に「日ソ不可侵条約」の破棄を通知していたので、仲介の意思がないことを

知られないように、適当にごまかして時間稼ぎをしていました。


大本営と特使の間で、焦りを交えたやり取りが続きました。

そうこうしている内に、7月26日日本の無条件降伏を含む、全13条の

日本に対し  「降伏要求最終宣言」  ポツダム宣言が発せられます。


日本には7月27日に届きますが、ソ連の仲介に期待していた大日本帝国は、

即対応しなかったため、結果的に宣言を黙殺した と取られます。



日本の戦争遂行の最高機関は、大日本帝国の大本営でしたが、8月5日に

 「最高戦争指導会議 としました。






この後の十日間、情勢は一気に動きます。

次回エビローグとして、この十日間を纏めたいと思います








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本土決戦から終戦へ御前会議

2016年08月24日 | 日々の出来事


昭和20年6月22日の御前会議で、ソ連に終戦の仲介を、

依頼することを決定しました。

これは陸軍主導で進められたようですね。

海軍の反対意見は、ダレス氏(ヨーロッハ滞在)を推していましたが、

敵国の人間に仲介を頼む事に理解が得られなかったのでしょう。

しかし、日ソ不可侵生薬の破棄を通告して来たソ連に、

仲介を頼む方がKYだとは思いませんか。



事実ソ連は、参戦することを、連合軍の了解を取り付けており、

憎らしい日本が抵抗力を亡くしたところで、一気に攻め込んで、

北方領土は当然、北海道を分割統治しようと目論んでいるのに、

さっさと終戦の仲介をしてくれる訳がないですよね。



終戦仲介依頼の特使は、なかなか話が進まないことに焦れて、

大本営に支持を仰ぎますが、指示通り話が進んで終戦になると

終戦条件の内容が、日本不利になったのは、指示した奴が弱気過ぎただの、

卑怯者だの、果ては売国奴だのと言われるのは自明の理と承知しているから、

「話の機微は、こちらでは十分理解することは出来ないから、

直接話し合っているそちらで判断せよ」と取り合わない。


こうして、ソ連の作戦に乗せられて、日にちを費やしていったのですね。
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三国同盟の崩壊「ドイツ降伏」

2016年08月22日 | 日々の出来事


昭和20年5月8日 三国同盟の二国目ドイツが降伏してしまいました。

イタリヤが降伏した後、ヨーロッパではドイツ、極東アジアで日本が

アメリカを中心とした国連軍を相手に、一年八か月戦っていたのです。

このシリーズの記事の中で、終戦の重大な転機を、幾つか上げてきましたが、

このドイツの降伏も、省くわけにはいきません。



イタリヤ降伏の記事の中で、バレーボールの試合を例に挙げましたので、

ここでも9人制のバレーで説明しましょう。

国連軍は各国の選抜選手を、Aコートに9人入れているのに、

日本は、Bコートに入れる選手は、3人しかいません




それでも日本は、「試合をやろう」と言って引きません。

こんなハンデの付いた試合を、なぜ「やれば勝てる」

という意見が通るのでしょうね。
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