天下統一を果した豊臣秀吉が大陸へ侵略するため、その拠点として構築したのが「名護屋城」だとされる。
地図でその位置を確認すると、朝鮮半島、大陸に近く、途中には壱岐、対馬がありロジスティックの拠点としては便利そうである。
そして今、名護屋城はどうなっているのだろうか。
見学は「大手口」から、なだらかな登城坂を登り本丸を目指す。
いきなり、石垣から転がり落ちたらしい大きな石が、ゴロゴロと転がっているのが目につく。
勉強不足の私は、自然に崩落したのだろうと見ていた。
なぜ修復しないのだろう?とも思った。
あとから資料を読み、江戸時代の初めに人の手で壊されたのだと解った。
登城坂を登りきったところが「東出丸」と言われる、城の東側の備えとなる場所である。
ここからの眺めはよく、説明パネルにより、全国から集まった大名の陣屋があった辺りがよく分かる。
例えば、「徳川家康」の陣が近くにあったことも分る。
途中の石垣もいたるところで崩れている。
昔聴いた「古城」に出てくる、「崩れしままの石垣に、哀れを誘う病葉や」の歌詞を思いだしてしまう。
先へ進み石段を登り、右へ行くと本丸大手門から本丸へと続く。
左が「三の丸」となる。
広い本丸に到着。
建物はなにも無く、ただ広い平地が広がり、名護屋城址の石碑が立っている。
本丸の南西角から、一段高くなった天守台を望む。
天守台の石垣をも崩されていて痛々しい。
表面に積まれた大きな石どころか、その内側に詰められていたと思われる小さな石ころも転がり落ちている。
名護屋城周辺には全国から大名が集まり150もの陣屋が築かれ、そこには20万人もの人が住む城下町があったのだという。
陣跡のひとつ、名護屋城から海(名護屋浦)で隔てられた向かい側に残る加藤嘉明の陣跡。
加部島との間に架けられた呼子大橋のたもとにある。
名護屋城址の大手口の目の前、名護屋城址や陣跡の保存・整備事業の役割を担う中心施設「名護屋城博物館」。
駆け足での見学であったが、復元した「黄金の茶室」のみは見ることができた。
秀吉以外にも、自らの陣に茶室を作っていた大名もあるようである。
戦の最中である。
さらに能舞台を作っていた大名もあったと知ると、「え~?」と思ってしまう。
結局、秀吉の没後はこの戦は中止され、やがて役割を終えた名護屋城は破却される運命となってしまう。
現在、当時20万人を数えたとされる城下町の賑わいを想像することは難しい。