幸隆の国から

歴史の跡、自然、いい湯などを訪ねて出掛けたときの記録。
また、四季折々、日々の雑感です。

鳥取市の歴史的建物「仁風閣」

2021-10-24 | 旅行

鳥取城跡を訪れたなら、城跡のそばに建つこの建物は誰もが立ち寄るであろう。

 

観光資料により、興味のあるポイントを追ってみる。

明治40年、鳥取池田家の14代当主池田仲博侯爵が建てたものである。

当時のお金で4万4千円の建築費がかかったと記録されているという。

なんと、当時の鳥取市の年間予算が5万円だったと聞くと、驚くばかりである。

 

建物が完成した年、皇太子殿下(後の大正天皇)行啓の際に宿泊所に当てられたのである。

その時皇太子に随行した東郷平八郎が、その名を「仁風閣」と名付けた。

今も、直筆の書を2階で見ることができる。

 

真っ白に塗られた木造、瓦葺の建物を正面から見る。

右側にはみ出したとんがり屋根の部分は、らせん階段が設けられている部分。

いくつかの部屋には暖炉があり、屋根から突き出した煙突はそのためのもの。

 

裏側から見る。

1F,2F、いずれにも庭に面した広いベランダが設けられている。

ベランダで風に当たりながら芝生の庭を眺めていると、一瞬ではあったが狭苦しい我が家を忘れさせてくれた。

 

芝生の庭の向こうは鳥取城の石垣。

 

芝生の先には「宝隆院庭園」がある。

鳥取藩十二代藩主が、若くして未亡人になったしまった、十一代藩主夫人「宝隆院」のために造ったといわれる庭園。

それほど広くはないが、せせらぎ、池、植木、花などが心地よい空間を作り出している。

 

お部屋の一つ。

 

「らせん階段」を、しっかり見たのだが支柱がない。

珍しい。

 

見学後

お金に糸目をつけず、当時のトップクラスの建築家の設計により、ぜいたくな材料を使い、腕っこきの職人の手による建築。

ふと日々の現実を思い、ため息が・・・。


秀吉が兵糧攻めで攻め落とした鳥取城の跡

2021-10-24 | お城

鳥取城は、堅固な防御能力を備えた、有数の山城の一つに挙げられている。

羽柴秀吉は大軍を以って包囲網を敷き、籠城する敵(吉川経家)を兵糧攻めにして攻め落とした歴史がある。

 

鳥取城は久松山のてっぺんに「山上ノ丸」があり、天守があったが火災で焼失したという。

今も石垣などの遺構が残っているそうだ。

今回は、山麓に展開する「山下ノ丸」を見て回った。

明治になってすべての建物が取り壊されてしまったが、みごとな石垣が当時の姿をとどめている。

 

お堀の向こうに広がる久松山公園越しに石垣が見える。

 

正面の久松山のてっぺんにあったのが「山上ノ丸」。

本丸までは30~40分の急な登りを覚悟する必要があるそうだ。

 

「二の丸」へ登る石段。

 

山下ノ丸で一番高い位置にある「天球丸」から城下(鳥取市街)を見る。

もし戦であれば、攻め上ってくる敵に向かって、この辺りから矢や鉄砲を放ってやろうというイメージがわく。

 

天球丸の石積み。

 

鳥取城跡で見たかったポイントの一つ、日本でここだけと言われる丸い形の「巻石垣」。

後の石垣が崩れるのを防ぐため、補強の石垣として積まれたとのことである。

 

西坂下門(復元)。

 

手前は堀に架かる「擬宝珠橋」、その奥が正門に当たる「中ノ御門」(再建)。

現在は石垣の工事中で、「中ノ御門」から入城するのは不可。

 

「山上ノ丸」への登り口にあった「クマ出没」の看板。

朝の雨でぬかるんだ道と、クマの怖さに負けて山上ノ丸攻撃は取りやめとした。

機会があれば、次回は・・・。