como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

真田丸 最終回

2016-12-23 22:35:36 | 過去作倉庫15~
 はい、1年間の大河ドラマの最後を飾る最終回の日曜日が、今年もやってまいりました。今回は出かけてたのでリアタイ視聴できず、録画を見てこれを書いているんですが、妙なお祭りモードに影響されずに、冷静に最終回をじっくり見れたので良かったと思います。
 最後の5回が始まってから、どーにもこーにも低調で、腹立つことも多かったので、最終回にはなにも期待はしてなかったのですが、思いのほかに良かったです。けっこう満足して1年間の視聴を終えることが出来ました。
 この1年間のドラマの内容には、まったくもって満足していないし、トータルの品質のバロメーターである(と個人的に決めている)プレ最終回もあまり良い出来ではなかったのに、最終回だけはなぜか満足しました。まあ、満足しないより嘘でもしたほうがそりゃいいんですがね。
 思うにこれは、最終回がじつにうまく、慣れ親しんだ「大河ドラマの最終回」の空気を醸し出していたからじゃないですかね。そう、ほとんど大みそかの紅白歌合戦と一緒。なにも目新しいことをやる必要はありません、しみじみとこの1年をふりかえり、1年欠かさず見てきた重さをじんわり感じつつ、それから解放されていく脱力感と、一抹寂しさのようなものを感じたりする。最終回の時間が進むにつれてそういう、柄にもなくポエムな気分が濃くなっていく。最終回でそういう感慨に視聴者を導くために1年の長きにわたるドラマがあるといっても言い過ぎではないので、1年間のドラマがわりと見掛け倒しでスカスカしてたのに最終回でうまくそういう慣れた空気出してくる、というのは、大河ドラマ好きのツボわかってくすぐってくるみたいで、悪い気分じゃありません。
 といっても、最終回もどっか豪華な大人の学芸会見てるみたいな、わりと無責任で軽薄な感じではありました。思えば、真田丸という大河ドラマ自体が、1年がかりの大人の学芸会みたいなもんだったのかもしれません。

 第50回「最終回」のざっくりした感想

 これで最後ですし、今さらあらすじまとめても意味ないと思うので、心に残ったところをランダムにかきます。

○真田信繁=幸村(注・主人公)が最後の最後でものすごくかっこよくなってしまった件。

 いやあかっこよかったなあ。文句なし。堺雅人さんも1年間ふんばって演じてきた甲斐があったのではないでしょうか。
 家康襲撃にあらわれた幸村が十文字槍を銃眼代わりにして馬上筒を構えるところなんか、ほんと、うわーっと引き込まれましたもん。うわーっ。これは渡辺謙か真田広之か、みたいな。死を覚悟して戦支度をしながら「私は私という男の生きた証を残せたのか」とかいうところとか、おびえる茶々をだきしめるところとか、もう、隙なくかっこよい。ここしばらくお会いしてなかった十全な大河ドラマの主人公オーラ。なんか、いいもん見たなあと思いました。
 しかし、主人公がはじめて本気出して主人公オーラを全開させるのが最終回ってのは、全体の構成から見てどうなんでしょう。ようはここに射程をさだめていままで主人公を主人公らしからぬ、いつも誰かの金魚の糞みたいな描き方をしてきたわけで、「これを狙ったのだよ」とほくそ笑んでおられる(誰が?)のかもしれませんけど、それにしても1年の最後の最後ってのは、やっぱりやりすぎだと思う。折り返し付近と35話近辺のあたりの要所で、ちゃんとカッコいい見せ場を作っとくべきだったと思います。
 まあ、真ん中の折り返しに山らしい山をつくらず、見せ場中の見せ場の「関ヶ原の戦い」をエア関が原でスルーして、大河ドラマの様式美をあえて外してみましたってところかもしれませんけど、そういうとこはむしろあざといと思ったし、そのためにわざわざ軽薄で役に立たないキャラにされてる主人公が不憫に感じてもいました。
 だから、たとえ最後の最後でも、まったく隙なくお笑いもなく完璧にかっこよく終わっただけでも良かったんですが、それより、唐突にかっこいいオーラをまとってかっこいいことを言ったりしても、上手くいかないですよ、普通は。なのに、「なに、急にどうしたの」的なしらじらしさが、全くなかったんですよね。これがすごいと思った。
 なんだかんだ文句いいつつも1年間に蓄積されてきた主人公への感情移入が、無いと言い張ってもあったのかもしれませんが、それより、これはやっぱり中の人の演技力だと思うんですよ。半端な色男では、こーゆー、ここぞというカッコいい場面を自然にかっこよく決めるというのはできないものです(そういう変な例は過去の大河ドラマにゴロゴロしているよ)。やっぱり堺雅人さんは平成の視聴率男というだけあって、軟弱でふわーっとしてるようでそういうツボは心得て、出し入れ自在みたいなところがあって、それでも決して役者バカみたいな臭みがないあたり、ちょっと並ではないとあらためて思いました。
 と、最後なので、いままでの50回いちどもほめたことが無い分まとめてほめちぎってみました。

○時の旅人徳川慶喜・大坂城炎上男の業の深さよ

 今作の大野修理は基本的に常識人で、でも押しが弱く、小ずるいところもあったりするごく普通の善人で、その普通さが要所要所で地味に光っていてとても好感が持てました。
 で、その大野修理が最終回になって大活躍します。具体的には、「秀頼様のご出馬」という、大坂の陣の必勝アイテムとしてプログラムされた最終兵器をまかされるのですが、まじめな修理はもちろん、まじめに役を果たそうとしますよね。これが大失敗するわけです。
 面白いくらい勢いがあって、徳川軍をなぎ倒し、うっかり勝ちそうになってしまう豊臣軍ですが、肝心の秀頼が出てこない。業を煮やした修理は城に戻って秀頼様のご出馬を促すのですが、このとき、秀頼を迎えるために持ち出した千成瓢箪の大馬印を高々と上げたまま、敵に後ろを見せて城に帰っちゃう。この行動を負け戦と勘違いした兵隊たちが勝手に敗走し始めて、そこから豊臣軍の総崩れが始まり、さらに天守の炎上をみて絶望した豊臣軍と、勢いづく徳川軍で形勢が逆転する、という。
 このくだり、どーしても鳥羽伏見の戦いの「錦旗上がる」(旗ひとつで形勢が逆転)、会津鶴ヶ城の戦いの白虎隊自刃(火事を遠目に見て落城と誤解)を思い出し、なんだか幕末もの大河リミックス?的なふしぎな感じがしたのですが、それもこれも今井朋彦さんが大野修理としてそこにいるからかもしれません。そう…。かつて最後の将軍・徳川慶喜として、徳川家代々の金扇大馬印を置き去りに大坂城からトンズラし、幕府軍敗走と大坂落城を招いた本人が、時代をさかのぼって大野修理になって大坂城に戻ってきて、今度はちゃんと馬印を城に持ち帰り、最後までまじめに落城に立ち会う。あのときのツケをちゃんと払うんだけど、それでも結果的に大坂城を落城させたことは同じという、なんかもう、業の深さを感じるわ(笑)。時の旅人として大坂城を炎上させて回る宿命なのか、この人は。
と、この慶喜トリビュートは個人的にめちゃくちゃ面白かったです。意図されたものかどうかはわかりませんが。

○焼き鳥串で自害かいっ!

 最後の方で急に出てきた人(モブとしてずっといたことはいたが、浮上してきたのは突然)が黒幕になってラストを大車輪でまわすいうのは、前にもいいましたけど安直で、わたしは好きじゃありません。台所の大将がスパイだったてのはウスウスわかってましたけど、娘を秀吉に手籠めにされて云々ってのもとってつけたようでした。だいたい(今作の)秀吉は、そこらの娘を犯しまくるような野獣キャラでもなかったし。それなら落首事件で殺された門番の父親だったとか、そのほうが繋がるんじゃないの。
 しかもこいつが幸村と佐助に難詰されて、持っていた焼き鳥串を逆手に持って自害。焼き鳥串で自害(笑)。んでも死んだと思ったのが死にきってなくて大蔵卿に幸村のことを讒言し、さらに城に火をかけて炎の中で高笑いしながら死んでいくという、ここまで活用されればとチョイ役冥利に尽きるでしょうが、なんか冗談みたいになっちゃうよな。こーゆーのに思い付きで歴史をまわさせるなよ、ほんとにもう。

○家康が実は主役だったんじゃないの?

 いやあ、最終回の家康はホントによかったです。もしかして、このドラマは家康の成長譚という隠しテーマがあったのでは?、と思ったくらいでした。
 とくに、真田隊の猛攻をうけて真っ先に逃げ出した家康のプチ逃避行と、最後に幸村の単騎特攻に対峙して死を覚悟したところを、秀忠に救出されて身を任せる。この一連の流れが、序盤の「伊賀越え」の再現だったのには思わずジーンときました。
 あの伊賀越えからはじまった天下取りへの長い旅が、大坂夏の陣での「再現・伊賀越え」で完結する。そしてそれを完結されたのが家康のあとを継ぐ秀忠だったというのが、家康の長い旅がここで大団円を迎え、サクセスストーリーが完成した瞬間を見るようで、ほんとに良かったですね。
 思えば、このお話に最初から最後まで出ていて、人物像にブレがなく首尾一貫していたのって家康だけだったような気がする。主人公でさえ、展開の都合に合わせて性格や主義主張が変わったりして、けっこうその場しのぎ的にブレていましたからね。こういうブレの無い人が一人いただけでもドラマ的にはだいぶ救われたんじゃないですか。
 あと、幸村と家康の対峙は「風林火山」の猿之助丈とガクト様の「三太刀七太刀」の場を思い出した。これも内野さん個人へのオマージュになってて気が利いてると思います。そういう意図はなかったかもしれませんけど。

○最後に片を付けなかったもの・ひと・こと

 んで、まあ最終的には定番の戦国もの大河と同じように、大坂城の落城とともに豊臣家は滅亡し、徳川家による太平の世がやってくる、ということで幕となるのですが、そこに落とす前に、当然片を付けるべきことをいくつも、あえてフェードアウトにしたのがなかなか印象的でした。
 まず一番大きいのが淀殿と秀頼親子の生死。こんなんわかりきってることなんですが、この話だけみてると、大坂城を脱出して父親のもとに戻った千姫の嘆願で母子の助命は叶い、どこか地方のお寺かなんかで穏やかに一生を終えたとしても不思議じゃないような気がする。
 それから幸村自身の生死。これもはっきり描かなかったので、例えば大陸に落ち延びて(笑)「その中でいくたびか、信繁の姿を見た者があるという」的な、獅子の時代みたいな(爆)オチだってあるような気がする。
 それときりちゃん。彼女がどうしたのか何も語りませんけど、これはちょっと「真田太平記」のお江みたいですよね。真田家のゆくすえを見守りつつ名もなくフェードアウトしていく。オマージュと称して真田太平記をバカにしているみたいな描写はいつも気に入らなかったんだけど、これはとてもよかったです(そういう意図はなかったかもしれませんが)。
 今作、ナレ死という言葉がはやったように、ナレーションの一言でアッサリと人を死なせて退場させるのが印象的でしたが、最終回時点で生き残った人々についてはナレ死の手法を使わず、あとはご想像におまかせしますねという方法。話をすっかり畳まずに広げっぱなしで終わる感じで、これは賛否あるかもしれません。でも、いまさら最終回に史実的な整合性を求める必要もないので、これはこれでありだと思います。「歴史」と「伝奇」の融合という観点からも、なかなか余韻のある良い終わり方だったのではないでしょうか。「余韻」でまとめれば、ぜんぶ細かく史実にそって回収する手間もかかんないしね。
 だとしても、真田家が徳川に一矢報いてこの抵抗の落とし前をつけるのが役240年後の佐久間象山の登場、というのはいささか茫洋としすぎて強引なオチだった気がしますが…。
 そういえば最終回の最後にお約束の「完」の一字の大写しもなかった。てことは完結してないってこと?やだあスパンオフとかやめてよ。あ、いや(笑)
 余韻がタップリあるのはいいけど、いちおう「完」の一字は置いてほしかった。そんなとこで外す必要まったくないし、だいたい最終回のサブタイが「最終回」ってのも、まあふざけてるんだろうけど、あんまり面白いとも思えなかったなあ。

 というわけで、なんだかとりとめなくダラダラ語ってみましたが、この辺で終わりにしたいと思います。
 前から言ってましたとおり、2007年の「風林火山」からはじめたこの大河ドラマレビュー活動も、今年をもって一旦区切りとさせていただきます。ことしは色々毒を吐きながらも、どうにかこうにか投げ出さず最後までたどり着けて、自分としてはホッとしております。
 あとは、年内に真田丸の総括とアカデミー賞やるかな。いちおう最後の〆めとして。
 とりあえずこんな駄文に最後までお付き合いくださいまして、どうもありがとうございました。