湯原修一の歓喜悦慶と聊かの慷慨憂愁, etc.

いつとはなしに眠りにおち微風を禿頭に感じて目が覚める。
このような生活に変わったらブログが更新されないかもしれません。

◇ 40年近く前に行った「須川高原温泉」

2015年06月27日 22時39分30秒 | 昔々の思い出
永年勤めた会社を定年退職し、
27年ぶりに田舎(熊本市)に戻ってきてから2年余りが過ぎました。
今の生活環境や生活リズムにも慣れてきたところです。

昨春より非常勤職員として寮の管理人を勤めていますので宿直勤務もありますが、
会社員の頃のような「期日までに必ず遣り上げなければならないような宿題」も特にないので、
わりとノンビリした日々を過ごしています。

緊張感に乏しい日常の中で、
TVの旅番組や本を読んでいるときなどに、ふと昔のことを懐かしく思い出すことがあります。

昨日は、図書館から借りている「東海林さだお」(*)さんの「偉いぞ!立ち食いそば」を
読んでいるとき、岩手県の山の中にある「須川高原温泉」に行ったときのことを思いだしました。
本の中に東北駅弁旅行の話が出てきたからです。

          * : 家には「東海林さだお」さんの単行本が、
            「丸かじり」シリーズなど数十冊あります。

長い思いで話になります

 「須川高原温泉」は岩手県、宮城県、秋田県にまたがる栗駒山(1,626m)の岩手県側山麓
 にある1軒宿の温泉です。
 そのころ私は20代で、東京で寮生活をしていました。
 独身だった当時は、見知らぬ田舎の温泉へ旅するのが好きでした。
 宿の予約もしないまま出かけることもあったのですが、そのときは電話で予約して行きました。

 「須川高原温泉」へは一関市から定期バスで行きました。
 (一関までは東北本線の電車で行ったはずです)
 さすがにボンネットバスではなかったのですが、結構古いバスで年季が入った運転手さんと
 車掌さんが乗っていました。
 (当時の田舎では、まだ車内で車掌さんがキップを売っているところもありました)
 10月下旬でしたが、栗駒山に近づくころには車窓から人家は見えず、周りの木々の葉や草が
 枯れてしまっており、うら寂しい風景が広がっていました。
 山を上っていくまだまだ先にある一軒宿はどんなところだろうと、
 少し心細くなったという憶えがあります。
   1時間30分ほどバスに揺られて(カーブも多かった)、「須川高原温泉」に着きました。

 高給取りでもなかった私は、安い部屋を頼んでいました。
 部屋は狭く、窓があったかどうか憶えていません。
 食事前に混浴大浴場(**)へ行きました。

       ** : 当時は、田舎の温泉、特に東北は混浴のところが多く、
           その有無が、私の宿選定条件の一つでした。
           女性と一緒にお風呂に入れるかもしれないというのが理由ではなく(?)、
           おおらかな考え方をしている宿の雰囲気を期待してのことです。
             なお、現在は各都道府県の「公共浴場条例」により
             幼児、家族湯を除き原則として混浴禁止となっています。

 大浴場に行くと入口が男女別になっていました。
 "ガイドブックに騙された"とがっかりしながら脱衣して、戸を開けて浴場に入りましたが、
 すぐに"騙されてなかった"ことが判明しました。
 脱衣所は板壁で仕切られていましたが、モウモウとした湯気を立てる広々とした湯船は
 共用(混浴)となっていたのです。
 ただ、湯気を通して目を凝らしても、私の他に誰も見当たりませんでした。
    少し残念ではありましたが、広い湯船で泳ぐことはできました。


 夕食は部屋食ではなく食堂で一緒に食べるようになっていました。
 私の部屋の名札が置いてあるテーブルに座り、前に並んでいる料理と周りのを見比べました。
 違いはなさそうだったので、肩身の狭し思いをしなくて済むとホットしました。

 離れたテーブルに、私を乗せてきたバスの運転手さんと車掌さんの顔が見えました。
 あとで知って驚いたのですが、
 何と私が泊まったその日(10月24日頃)が、その年最後の宿泊営業日だったのです。
 つまり私はその年最後の泊まり客だったのです。
   一関からきた運転手さんと車掌さんはバスとともにそのまま宿に1泊し、
   次の日に復路(その年最後の運行となる)を運転して戻られるとのことでした。
   宿での夕食と宿泊は、お客を運んで来てくれる運転手さんたちへの
   宿からの無償サービスだったのでしょうか。
   (やはり、混浴の宿はおおらかな営みをされています)

 翌日に宿を閉鎖して建物の越冬準備をされるとのことでした。
 (秋から春まで約半年間も休業されるとのこと)
 そう聞いた後では、従業員の方がソワソワ・ウキウキされているようにも見えました。
 節目の日に立ち合うことになった私のほうは、少し感傷的にもなりました。


 食事が終わるころになって隣のテーブルの中年女性(Kさん)から声をかけられました。
 『私の部屋で飲み直しませんか』というお誘いでした。
 その方も当日1泊だけとのことでしたので、私と同じバスに乗って来られたことになります。
 バスの乗客は数名だったはずですが、窓の景色を見ていた私は顔を憶えていませんでした。
 宿泊客も数名でした。グループのような客はいなかったと思います。
   皆さん、何の目的があってシーズンオフの最後の営業日に一人で泊まられていたんでしょう。
   (最後の営業日とは知らなかった私にも言えることですが)
   雪に覆われてしまう前の、寂のある晩秋の情緒に浸りに来られていたんでしょうか。

 
 Kさんの客室は、布団部屋のような私のところと違って踏込もある広い部屋でした。
 仲居さんが酒(ビールと日本酒(?))を持ってこられて飲み始めました。
 純情な私はそれでなくても緊張していたんですが、
 仲居さんが『お布団をもう一つ敷きましょうか?』ときかれた言葉にドギマギしました。
 (仲居さんのこういう気配りにも、おおらかさが感じられました)
 Kさんが『結構です』と返事され、仲居さんが出て行かれました。
 少し "無言の間" があって、また飲み始めました。
 どんなことを話したのか、自分の部屋に戻ったのが何時頃だったのか、
 全く憶えていませんが、
 
   部屋に戻ったあと内風呂(幾つかありました)に入ってから寝ました。

 翌日の帰りのバスではKさんと一緒に、他の数名の乗客とは離れた後方の席に座りました。
 1時間30分の間、肩を寄せ合って話しが弾みました。
 車掌さんが "何か変な事" でもしてるんではないかと怪しんで、
 途中で数回見回りに来られました。
 
     ※ジロジロ見ていかれるわけではありませんが、
       席の横を通るときにチラッと私達を見てから、
       後ろの「行先票」を点検しに行かれていました。
       何回もする必要がないはずのその行動は、
       私たちを"点検"していたとしか思えませんでした。

 終点の一関についてKさんと別れました。 Kさんは気仙沼へ、私は東京へ ・・・
 別れ際にKさんから
 『東京に行くこともあるから、住所と電話番号をおしえてほしい』と訊かれましたが、
 Kさんとの糸が切れてしまうのがわかっていながら、なぜか、知らせませんでした。
   心なしか少し寂しそうに歩いて行くKさんの後姿を見たのが最後です。


 Kさんは気仙沼市内でスナック「○○○」をしていると言われていました。
 おおらかで明るい方でした。
 (表情には出さないものがあったのかもしれませんが)

 それから30数年後の3月11日に東日本大震災が発生しました。
 気仙沼の町のいたる所から炎があがっている映像がありました。
 町全体が炎に包まれているように見えました。

 Kさんは無事だったのでしょうか。
 (地元の方のようだったので恐らく気仙沼に住み続けられたものと思われます)
 私より20歳ほど年上だったと思いますから80歳近くになられていたはずです。

 酒が好きな方だったので、震災前に既に亡くなられていたかもしれません。
 それならそれで、
   住み慣れた町が燃えているところを見ることがなく
     地元の人々の哀しい顔を見ることもなく、良かったのかもしれません ・・・