映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

「300」は昔の「スパルタ総攻撃」

2010-12-26 14:59:23 | 舞台はギリシャ・イタリア

今話題の「300=スリーハンドレッド」を見るには・・・

 

 1、「この映画は「西洋史の根幹をなす歴史映画」、西洋史上の重要歴史事件を描いている」などと言ったって、皆きょとんとするだけ、殆んど何のことか分からないだろう。エンタメ映画にいちいち歴史講釈は要らない、まして西洋史の根幹などと粋がるのもいい加減にしろということだろう。  

 

確かこの映画はアメリカでヒットしたコミックを映画化したもの。映像の殆んどはヴァーチャルスタジオで撮られたもので、現実感は全くなく、ゲーム感覚で映像を楽しむだけ。映像作成の専門家から見ればいろんな技術がふんだんに使われ、よく出来たものなのだろう。見るものを楽しませるというサービス精神は充分伝わってくる・・・それを楽しめばよい。

 

 2、しかしこの映画は、内容的には1961年、20世紀フォックスの「スパルタ総攻撃」の焼き直し。西洋史の最初の方で出てくるギリシャ史のハイライト「ペルシャ戦争」でのギリシャ軍の活躍を描くもの。

 

 要はペルシャ戦争の中でも尤も重要な第三回戦役(BC480年)、その中でも尤も物語性に富むスパルタ兵300人全滅という「テルモピレー戦役」。ギリシャはこの悲劇的な戦の後、アテネ中心の海軍が「サラミスの海戦」で大勝し、ギリシャを追い返す。ということで・・・余計スパルタ兵の全滅事件が劇的に語られるのだが・・・。 

 

問題は、歴史学者がこのペルシャ戦争を重要視し、「西洋人が始めて東洋人を破った、いち早く民主政治を導入したギリシャ社会が、古代専制政治のオリエント社会を破った」ということの証とする点。

この西洋史の大筋に異議を唱えるつもりはないが、あまりきれいごとのみ、表面的理解のみで歴史を語りたくはない反骨精神。

 

 3、 ギリシャの民主制といっても、内容的には今日いう民主制とは程遠く、後世の政治や歴史学者が作り上げた概念的要素が強い。そしてアテネはともかく、パルタの「リクルゴス体制」と呼ばれるものは「民主制」と呼べるのかどうかきわめて怪しいように思う。 

スパルタは常に二人の王をもち、王の政治は「エフォロス」と呼ばれる官職に就く長老によって監視され、今日的にいえば「シビリアンコントロール」が出来ていたのかも知れないが(映画の主人公レオニダス王は、それを破って活躍する)、これはスパルタの特殊事情、国内で圧倒的多数を占める異民族メッセニア人を押さえつける政治的工夫であった要素が強い。 

スパルタは第三回ペルシャ戦争ではアテネと手を携え戦うが、それ以外のときはむしろペルシャ側についてアテネを懲らしめるための権謀術数を凝らす。ギリシャ戦争が終わった後始まる「ペロポネソス戦争」はアテネとスパルタの対立を軸とするポリス間の権力闘争であるが、ここで執拗なペルシャはギリシャ諸都市と結び・・・結果的にギリシャ全体を弱めてゆくのである。

 

4、そして問題はこの「ペルシャ戦争が西洋人の東洋人に対する最初の勝利」というコンセプトが、西洋史を貫く基調になってゆくということなのだが、本当にそういうことで良いのかどうか。

・・・その辺を鋭く抉ったのがザイードの「オリエンタリズム」という名著である。

 サイードは、歴史を通して西洋が自らの内部に認めたくない資質をオリエントに押し付けてきたとし、東洋を不気味なもの、異質なものとして規定する西洋の姿勢を「オリエンタリズム」と呼び、批判した。

また彼は、単に西洋・東洋の対比だけでなく、ある種の権力構造・価値観を内包し、他の文化や他国の思想・価値体系を認めない立場をもオリエンタリズムとして同様に批判している。

要はオリエンタル(東洋、東洋的、東洋性)は、西洋によって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学等、広範な文化活動の中に見られる。それはしばしば優越感や傲慢さ、偏見とも結びつき、ひいては西洋の帝国主義の基盤ともなったのではなかろうかという。

そして、東洋あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化の描かれ方として・・・ハレムやインディアン、ゲイシャ等の描かれ方・・・ディズニー映画の「ポカホンタス」等の西部劇、中国日本の女性を描く劇や絵など、そして最近では「ミス・サイゴン」などにもそういう視点が見られるという。

こういう見地に立つと、この映画「300」も考えさせるところの多い、面白い映画ということになるのであろうか。

 



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