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日本近代文学の森へ (14) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その3

2018-05-26 08:49:47 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (14) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その3

「泡鳴五部作[上]発展・毒薬を飲む女」新潮文庫

2018.5.26



 『発展』の冒頭部を引く。(「青空文庫」による。以下同。)

 

 麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。
 義雄は繼母の爲めに眞の父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。
 が、渠(かれ)が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子──殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子──をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。

 

 ここに出てくる「田村義雄」は、ほぼ泡鳴自身であり、その他の人物も、出来事もほぼ事実ということらしい。

 「継母」というのがいきなり出てきて、分かりにくいが、義雄の生母は弟を生んですぐに亡くなり、生母在世中から父が囲っていた女が入籍して、義雄の継母となったわけである。これは、泡鳴のことを知っていれば分かることだが、しばらく読んでいくと、その事情も分かるように書かれている。

 人のことはさておき、冒頭にいきなり出てくる「麻布の我善坊」という地名が興味深い。小説のことだから、勝手に考えた地名だろうと思ってはいけない。ちゃんとした地名である。現在は、港区麻布台1丁目となっているが、当時は「麻布我善坊町」と言った。町名としては現在残っていないが、窪地の谷底のような町らしい。この近くに飯倉片町があり、ここの借家に島崎藤村が大正7年から昭和11年まで住んでいたという。(これは、なぜか、ぼくは藤村に『飯倉だより』という本のあることを知っていたので、それで、ちょっと調べてみたのである。)

 麻布我善坊町と麻布飯倉片町は、たぶん歩いても10分とはかからない距離だろうから、二人が住んでいた時期が重なれば、行き来もあったかもしれない。こんなに近いのは、偶然だろうか。この辺は調べてないから分からないが、なんだか、この辺にちょっと行ってみたくなった。「文学散歩」などというものには、昔はまったく興味がなかったけれど、どうも最近は、嗜好が変わったようだ。

 それはそれとして、この短い冒頭部分には、大事なことがほぼ全部書かれている。義雄が文学的には、それなりの仕事をして自負があったこと。父や継母との折合が悪かったこと。妻とも不和で、子どもまで嫌っていたこと。家督は相続したが、下宿屋の仕事など面倒くさいから妻に任せて、自分は勝手に生きたいと思ったことが、なんのてらいもなく、淡々と書かれている。

 普通はこんなふうには書かない。もうちょっと格好をつける。これじゃ、ただの自己中だと思われるのがオチだ。子どもが嫌いだといっても3人もいるのだ。下宿屋がどれだけの実入りがあるかしらないが、「主人」たる義雄が、面倒くさいことを妻に押しつけて、自分は「充分勝手次第なこと」をしていいはずがない。

 「いいはずがない」などという言い草は、常識人のもので、義雄には通じない。彼は、本気で、「充分勝手次第なことが出來る」と思い、それを実行するわけだ。

 夫婦喧嘩の一節をここで引こう。


「ゐ付く値うちがないのです、こんな家には。」
「お父アんの家でも──?」
「さう、さ──お父アんの跡を繼いだのは、わたし自身のからだと精神であつて──こんな家や妻子は、自分にそぐはなければ、棄ててもいいんだ。」
「棄てられるなら」と、妻は少し身をすさつて、「棄てて御覽なさい!」
「ふん、棄てるとも──もう、おれは精神的には棄ててるんだ。」
「何とでもお云ひなさい──人を表面上の妻だなんて!」
「お前の命令などア受けないと云つてるだらう──おれの心に反感をいだかせるものは皆おれの愛を遠ざかつて行くのだ。愛のないところにやア、おれの家もない。」
「ぢやア、どうしたら」と、訴へるやうな微笑になつて、「あなたの愛に叶ふのです? 教へて下さいと、何度も云つてるぢやアありませんか?」
「手套が投げられたのだ」と、嚴格に、「もう、遲い。お前には、もう情熱がない。よしんば、あるとしても、子供を通して向ける情熱であつて、直接におれに向けるやうな若々しい、活き活きした、極(ごく)あツたかい熱ではない。」
「そりやア、歳が歳ですもの──それに、六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女ですもの──子に苦勞してゐるだけ子が可愛いのは當り前でしよう。」
「お前は子の爲めに夫を忘れてゐるのだ。」
「いいえ、忘れてはゐません。」
「おぼえてゐるのは、おれの昔だ。」
「さうですとも、昔はあなたも」と優しくなつて、「なか/\親切な人でした、わ。」
「今は」と、相ひ手の態度には引き込まれず、「もツと親切な人間になつたのだが、その親切をおれよりも年うへのお前に與へるのは惜しくなつたのだ。」
「年うへなのは初めから承知して連れて來たのぢやアありませんか?」
「そりやア、承知の上であつた、さ。」義雄は妻に言葉を噛みしめさせるやうな口調になり、「然しよく考へて見ろ。二十前後の青年で、あんなにませてゐた者が──おれは實際ませてゐた──おれより年したのうわ/\した娘の上ツつらな情愛に滿足してゐられようか? あの時には、お前のやうな年増が──年増と云つても、たツた三つ上ぐらゐのが──丁度、おれの熱心に適合したのだ。然し考へて見ろ。人間は段々年を取つて行く。それは當り前のことだが、當り前と考へては困ることがある。それをお前はわきまへてゐない。」
「ぢやア、よく云つて聽かせて下さい、な。」
「いくら聽かせても、お前には分らないのだが、──教育がないからと云ふのではない。お前は相當の教育は受けたのだが、その道學者的教育の性質が却つて邪魔をするのだ──。」
「いえ、わたしは」と、言葉に力を込めて、「武士の家に生れたのです。」
「そんなことは」と、冷やかに、「現代に何の名譽にも、藥にもならない──おれも武士の子だが、わざ/\おやぢなどの考へや命令には從はなかつた。」
「それが惡かつたのです。」
「また教訓か」と目の色を變へかけたが、同じ調子で、「分らない奴だ、ねえ──。お前などア時代の變遷と云ふことが實際に分らない。政治上や文學上のことは別としても、教育界に於てだ、お前の教育を受けたり、お前が學校を教へたりしてゐた時代は女子はむかし通り消極的に教へられて滿足してゐた。然し、現代の若い女は積極的な教育を受けようとしてゐる。優しい女學校ででも教師、生徒間に衝突が起るのは、古い頭腦の教師連がこの心を解しないからだ。戀の問題に於ても、ただ男から愛せられて喜んでゐたのが、自分からも愛することができなければ滿足しなくなつた。」
「わたしだツて、自分から愛してゐます、わ。」
「ところが、その問題だ──段々年を取るに從つて男女の情愛は表面に見えなくなるとしても、愛してゐると云ふ言葉だけで、實際はそんな氣色もないのでは困る。男は世故に長けて來ると共に段々情愛を深めて行くものだが、今の四十以上の女は皆當り前のやうに男に對する心を全く子供に向けてしまう。」
「でも、子供は所天の物でしようが──」
「いや、子供は子供で、所天その物ではない──そんな古臭い傾向の家庭では、男は、平凡な人間でない限り」と、そこに語調を強めて、「深い/\情愛を空しく葬つてゐなければならない。──」
「何だ、詰らない」といふやうな振りをして、馨(義雄の弟)はその座敷の前を通り、食事をせがみに行つた。
 二階の方からも、空腹を訴へる手が鳴つてゐる。
「少くとも、おれはそんな寂しい墓場に同棲してゐられないのだ──」
「墓場だツて、家のことを。」繼母はあきれた樣子。
「お墓、さ、どうせ──おれは今一度若々しい愛を受けて見なければならない。」
「ぢやア、勝手におしなさいよ。」妻は立ちあがつて、獨り言のやうに、「濱町とか何とかへ入りびたりになるなり、好きな女を引ツ張つて來るなり──こツちは離縁/\と云はれさへしなけりや、子供を育てて暮しますから。」
「その子供/\が聽き飽きたんだい。」義雄は臺どころの方へ行く千代子の後ろ姿に向つて侮辱の目を投げながら、「子供と教訓とが手めへの墓の裝飾だ!」

 

 ここで、面白いのは、義雄が女に求めているのが「積極的な愛」だということで、義雄が女房に不満なのは、女房の愛が子どもにばかり向けられて、夫の自分に十分な愛を注がないことなのだ。このことは、『耽溺』の中でも語られた。男女の愛を、常に、激しい恋愛感情として捉えるかぎり、義雄の不満はもっともだといえるだろう。しかし、「六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女」としての女房が、義雄の求めるような愛を注げないこともまたもっともなことだ。そんなことは、「普通の大人」なら、百も承知で、そういう愛を求めるなら、女房に内緒でこそこそと行動するしかなく、その挙げ句、バレたバレないので、ドタバタになる次第なのだ。

 けれども、義雄は、年上の女房に向かって、堂々と、オレは昔のオレより優しくなったが、年上のお前なんかにその優しさを与えるのが惜しくなった、若い女に与えたいんだ、なんて言ってしまう。その義雄の気持ちのどこにもウソがないことに、むしろ面食らうほどだ。「普通」は、言いたくても言えないことを、義雄は全部言ってしまう。それを「バカ」と呼ぶか、「純粋」と呼ぶか、難しいところだが、義雄の言動の首尾一貫性が、たんに「バカ」といってすませられないものを感じさせるのだ。

 それにしても、「子供と教訓とが手めへの墓の裝飾だ!」という啖呵の何という切れ味だろう。







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一日一書 1446 蚕起食桑(七十二候)

2018-05-25 20:39:01 | 一日一書

 

蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)

 

七十二候

 

5/20〜5/25頃

 

ハガキ

 

 

季節に合わせて書いているつもりですが

気がつくと、季節が先に行っています。

早すぎる、、、

 

 

 


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一日一書 1445 竹笋生(七十二候)

2018-05-23 16:18:55 | 一日一書

 

竹笋生(たけのこしょうず)

 

七十二候

 

5/15〜5/19

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (13) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その2

2018-05-19 10:33:05 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (13) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その2

「泡鳴五部作[上]発展・毒薬を飲む女」新潮文庫

2018.5.19


 

 岩野泡鳴の生涯を簡単にたどってみようなんていっても、とても「簡単」というわけにはいかない。だから適当に端折ってやってみる。参照は、「現代日本文学全集29」の巻末にある「岩野泡鳴年譜」である。これは、泡鳴の次男薫の作成したものが元になっている。

 泡鳴は、明治6年(1873年)、淡路国洲本(すもと)(現在兵庫県)に生まれた、とある。廃藩置県は明治4年だけど、「淡路国」なんて言い方の方が薫が年譜を作ったころは通りがよかったのかもしれない。

 父直夫(ただお)は、洲本警察署の邏卒(らそつ)だった。「邏卒」というのは、明治初期の警察官の名称で、後に「巡査」と改称された。母がどういう人だったかの記述はない。

 明治17(1884)年、10月、洲本日新小学校を卒業。これより、20年まで、私塾で漢学と英語を学んだ。どんな「私塾」なのか分からないが、洲本にあったようだ。

 明治20年(1887)15歳の時に、大阪に出て、キリスト教の学校泰西学館に入学し、「英語を以て普通学を修む」とある。「普通学」って何だろう、よく分からない。この年、弟巌が生まれている。

 泰西学館に入ったこの年、泡鳴は、さっそくキリスト教信者となっている。これは明治にはよくある話で、多くの近代文学者は、若い頃にキリスト教信者、それもプロテスタントの信者になっている。島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、正宗白鳥など、挙げればきりがない。その多くは、やがて信仰を離れるが、それでも、その文学にはその刻印がはっきりしるされている。

 泡鳴も、20歳になると、キリスト教から離れるが、彼の思想はキリスト教と密接なつながりがあるはずだ。一切の世俗的な道徳を否定し、刹那に生きることを主張するその思想は、キリスト教と相容れないように見えて、実はその裏返しともいえるのだとぼくは思う。

 明治20年の項の「年譜」はこう続く。

十月、父洲本署巡査を辞し、一家を挙げて東京に移り、麻布区新網町に仮寓し皇宮巡査となる。美衛(泡鳴の本名)遅れて上京、明治学院に入る。十二月、歴史小説「サイラス王物語」を書く。全部で二百五十枚七五調なり。洋行費を作る目的なりしも、出版を春陽堂に交渉して成らず、火中に投ず。これ新体詩を作る動機なり。

 う〜ん、不思議なことばかりだ。岩野一家は、そろって上京し、父は「皇宮巡査」となるのだが、この「皇宮巡査」というのは、今でも存在する「皇宮護衛官」の中の一番下の位。どういう事情でそうなったのだろう。父は、何とか東京に出て出世したいと思ったのか。その後に上京した泡鳴は、キリスト教信者らしく明治学院に入っているが、250枚もの歴史小説を、「洋行費を作る目的」で書いたというのが理解に苦しむ。たった15歳の少年が、外国に行く費用を作るために、小説を書いて出版社に持ち込み、断られたからといって、それを燃やしてしまい、以後、詩を書くことにした、というのだから、なんとも理解しがたい。エキセントリックな泡鳴の片鱗がうかがわれる。

 250枚の歴史小説を「七五調」で書いたというのだから、内容はどうであれ、大変な力業には違いなく、並の才能ではできることではないから、泡鳴は確かに一種の天才なのだろう。しかし、いくら天才でも、そう簡単に小説で金をとれるものじゃない。今の世の中だってそうだけど、明治の時代でもそうだろう。ただ、案外、今よりはハードルは低かったのではないかとも思われる。小説の需要が、今よりは格段に大きかったのではなかろうか。

 ここで分かるのは、泡鳴は、最初小説を書いたけど、受け入れられず、まずは新体詩を書いた。つまりは、詩人として出発したということだ。いろいろな雑誌に評論などを載せているが、彼の最初の出版物は自費出版だったけれど、詩集だったのだ。藤村も、花袋も、詩人として出発している。自然主義の作家の多くが詩から出発しているというのも面白い。自然主義と詩というテーマは、高校時代か大学時代に、ちょっと聞きかじった気がする。

 泡鳴は、その後、どのような学校に行ったのか。15歳で、明治学院に入ったが、16歳では、「神田専修学校」で経済学と法律学を学んだとある。明治学院はどうしたのだろうか? 20歳の時、仙台に行って東北学院に入り、明治27年まで在学とある。この辺の記述も引用しておく。

明治25年(1892)20歳 二月、仙台に赴き、東北学院に入る。二十七年まで在学。希臘語、梵語、独逸語を学びたるも学校は欠席がちにして、「万葉集」「詩経」及びシェクスピヤを研究し、又、エマソンと中江藤樹を愛読し、松島に於て頻りに独禅す。漸くキリスト教を脱し、刹那哲学と新日本主義の思想の基礎を作る。

 明治学院から東北学院という流れは、島崎藤村を思い出させる。藤村は明治5年の生まれで、泡鳴より1歳年上。泡鳴も藤村も、明治20年に明治学院に入学している。泡鳴が東北学院に行ったのが、明治25年だが、藤村は明治学院を明治24年に卒業している。在学がちょっとかぶっているわけだ。在学中に二人は交友があったのだろうか。その後、泡鳴は明治25年に東北学院に行き27年まで在籍するわけだが、その2年後、藤村は明治29年に東北学院に教師として赴任している。あと2年泡鳴が東北学院にいたら、藤村の教え子になっていたのだろうか。なんか、不思議な感じがする。

 泡鳴の学生時代というのは、なんだか勉強していることがバラバラな気もするが、とにかく、勉強家であることは確かだ。泡鳴は、ただ女に狂った遊び人じゃなかったのだ。仙台でのおよそ2年間は、学校は欠席がちだったが、懸命に勉強したという。

 一方、泡鳴の実家は大変なことになっていた。泡鳴の父は、皇宮巡査を3年でやめ、下宿屋を建てて「日の出館」と称していたが、その父が、妻「さと」が病気中にもかかわらず、後家の熊谷まつという女を囲いだしたのだ。泡鳴の女癖の悪さは、父親譲りということだろうか。で、泡鳴は仙台から東京へ戻る。その10月に弟勝が生まれる。そしてその翌年母は46歳で没する。その2ヶ月後に弟勝も没する。

 母と弟の死の年、23歳の泡鳴は、石州浜田藩家老の娘、竹越幸(たけのこし・こう)と親戚の反対を振り切って結婚。なんで、反対されたのか分からないが、幸は幼くして父を失っていたこと、幸の方が年上だったことが原因だったのだろうか。

 その翌年明治29年、泡鳴の父の囲っていた熊谷まつが入籍し、泡鳴の継母となる。この継母が、小説によく出てくる。泡鳴のところには次々に子どもが生まれるが、4男2女のうち、3人は幼くして亡くなっている。何とも複雑窮まる家庭の事情である。
さていろいろあるけど端折って、明治41年(1908)泡鳴36歳の時の年譜の記述。

明治41年(1908)36歳。三月四男貞雄生る。四月、第四詩集『闇の盃盤』を有倫堂より刊行。五月、父直夫没す(六十歳)。よって家督を相続す。家業の下宿屋は妻幸が預るところとなる。小説「毒薬を飲む女」のお鳥(増田しも)を、芝区切通広町に囲い、殆ど家に寄りつかず。しも江は紀州の女にして、職を求めて上京、泡鳴の下宿屋に住みたるものなり。

 そして、その翌年、『耽溺』を発表する。その直後、泡鳴は、下宿屋を抵当にして950円を借り入れ、従弟の小林宰作の奨めた蟹の缶詰事業に乗り出すために、二月、樺太に行くのである。その事業は失敗し、十一月には帰京する。年譜だけ読んでいると、この樺太行きが、いかにも唐突で、どうして? って思うのだが、『発展』を読むと、ああ、そういうことかとよく分かる。『発展』は、泡鳴の父の死から、樺太行きを決意するまでのことが、書かれた小説である。話の中心は、妻「幸」(小説では千代子)との確執と、「お鳥」への恋である。

 ちなみに、『耽溺』の「事件」は、泡鳴35歳の時のこと。この『発展』の話の一年前のことである。

 日光でたまたま見かけた「おからす芸者」「不見転芸者」に溺れたが、彼女が梅毒に冒されていると知って女を捨てた泡鳴は、自分が父から相続した下宿屋に住み始めた若い女にまた溺れたという、「懲りない話」である。

 「年譜」に深入りしてしまったが、泡鳴はその後は省略。女関係は相変わらずで、浮名を流したが、とにかく作家としてしゃにむに書いて、大正9年、48歳で亡くなった。腸チフスだったらしい。

 

 

 


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日本近代文学の森へ (12) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』

2018-05-17 09:20:28 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (12) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』

「泡鳴五部作[上]発展・毒薬を飲む女」新潮文庫

2018.5.17


 

 『耽溺』を読んでから、この『発展』に入ると、ずいぶんと落ち着いた印象を受ける。『耽溺』の荒々しいムチャクチャな文章が抑制され、丁寧な叙述で、とても読みやすい。急に風格が出てきた感じである。

 といっても、最初のうちは、登場人物についての説明が不足しているために、なかなか人間関係がつかみにくい。しかし、読み勧めていくうちに、『耽溺』ではいまひとつ分からなかったことが、ああ、そうだったのかというところがたくさんでてくる。

 この小説には、『耽溺』を書いている場面も出てくるのでびっくりしてしまう。いわゆる「私小説」の原型だ。「私小説」といっても、主語が「私」となっているとは限らないが、とにかく主人公が、作者とほぼイコールであるのが原則。この小説の主人公は、「田村義雄」となっているが、『耽溺』の主人公と同名である。ただ『耽溺』では、「僕」という一人称を使って語られている。『発展』では、「義雄」「渠(かれ)」という三人称の語りである。三人称にしたということで、「落ち着き」がでたのかもしれない。

 『耽溺』を読んでも、「僕」とその妻の関係がどうなっているのか、よく分からなかった。妻との不和が前提で話が進んでいたわけだが、『発展』には、その関係が詳しく語られている。こういう書き方の小説の場合、『耽溺』だけ読んで評価するというのは、やはり問題があるわけだが、そうはいっても、読者はそんなことまで斟酌はしない。読者はやはり作品の「独立性」を信じているのだ。

 『耽溺』にしろ、『発展』にしろ、主人公が作者にほぼ等しいとなると、作者岩野泡鳴がいったいどういう人間で、どういう生活を送っていたのかをまるで知らないで読んでもあまり意味がない。その点で、完全なフィクションである、SFとか、ファンタジーとかとは、読み方がまるで違うわけだ。

 けれども、暇だから小説でも読もうかなあというような読者にとって、まずは作者の生涯をあらかた知らなければ読めない小説なんて、面倒くさくて最初から手にとる気にもなれない。それも、明治時代の小説家などというものは、実に複雑な環境に生き、複雑な精神構造を持っているから、面倒くささは倍増で、結果、誰も読まなくなる、というのが相場だ。現に、どの文庫を見たって、岩野泡鳴なんてとっくに絶版になっているのだ。

 ただでさえ「活字離れ」(この言葉さえ古くさい)が言われている昨今、夏目漱石や芥川龍之介でさえ、どれくらい読まれているのか分かりはしない。まして、いわんや、泡鳴においておや、である。

 しかし、まあ、国立大学の文学部なんていらないよ、と、時の政府が言うような、文化的後進国(いや後退国か?)において、今さら岩野泡鳴が読まれないなんてことを嘆いても始まらない。そもそも嘆くべきことかどうかも分からない。最近知った言葉だが、ポリティカリー・コレクトネス(人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。)の欠如というべき泡鳴の小説なんか、永久に葬ってしまえという人だっているかもしれない。そんな奴の小説を研究するのに「大事な血税」をつぎ込んでいいのか、なんてことを言い出す人たちだってきっといるだろう。

 そんな世知辛い世の中のことはさておいて、老境に生きるぼくが、だれも読まない岩野泡鳴を読んだとしても、誰に文句をいわれる義理もない。

 ここまで来たのも何かの縁だ。『泡鳴五部作』を云々する前に、泡鳴の複雑怪奇な人生を簡単にまとめてみよう。

(つづく)





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