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詩歌の森へ (7) 室生犀星『寂しき春』

2018-05-05 09:38:02 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (7) 室生犀星『寂しき春』

2018.5.5


 

  寂しき春


したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま
あをぞらに
越後の山も見ゆるぞ
さびしいぞ

一日もの言はず
野にいでてあゆめば
菜種のはなは波をつくりて
いまははや
しんにさびしいぞ


    『抒情小曲集』所収

 


 犀星が、前橋に朔太郎を初めて訪ねたのは、大正3年の2月。犀星26歳、朔太郎29歳。犀星は、この時、前橋におよそ1ヶ月滞在したのだが、この詩は、その時期に作られたとされている。

 こうした事情を背景にしてこの詩を読むのと、まったくそうした背景を知らずにこの詩を読むのとでは、詩の味わいはまったく違ったものとなる。
ぼくが大学生だったころは、「分析批評」とか「テキストクリティーク」とかいった考えかたが全盛のころで、要するに、「作品」の独立性が重んじられ、作者とか時代背景とかを作品の評価と結びつけるべきではないとされた。

 たとえば、この『寂しき春』という詩を鑑賞するにあたって、作者の犀星がどういうところに生まれ育ち、どういう人生を送っていたかなどということとは無関係に味わうべきだというわけである。すると、味わうべきは、言葉だけだということになる。いわば作者から解放された言葉は、読者の無限の想像を呼ぶ。その自由な想像こそ、文学の味わいだということだったのだろうか。ちゃんと勉強してないから詳しいことは知らないが、こうした考えかたはずいぶん新鮮に思え、ぼくもその線で作品を読もうとしたものだ。授業においても、この詩を扱うとしたら、犀星の生まれとか人生とか、故郷とか、朔太郎との交友とか、「余計な」ことは一切説明せずに、この詩の言葉だけを味わわせるようにしようと思ったわけだ。しかし、それも長続きしなかった。それでは、生徒の興味をひくことができないと分かったからだ。

 言葉は人間から発せられる。だから、言葉は、それを発した人間と切り離して考えることはできない。特に、詩は、それも感情の表現を目指した詩は、作者と密接につながっている。

 おなじ「さびしい」でも、犀星の「さびしい」と、朔太郎の「さびしい」では、まったく違う感情を内に含んでいる。その作者の感情を無視して、ただの「さびしい」という言葉だけをとりだしても、何の意味もない。少なくとも、詩を味わったことにはならない。
「さびしいぞ」と二回繰り返され、題も「寂しき春」となっているから、「さびしい」気持ちを表現した詩には違いないのだが、さて、「なぜ寂しいの?」って思うと、これがなかなか難しい。
情景は実に鮮やかに目に浮かぶ。だがその情景と「さびしさ」との関係は、そんなに理解しやすくない。「したたり止まぬ日のひかり/うつうつまはる水ぐるま/あをぞらに/越後の山も見ゆるぞ」、と「さびしいぞ」の間に「だから」を入れても、何にもならない。情景は、「さびしい」という心情の理由ではないのだ。こういうところが詩の難しさで、「だから詩は嫌い」という生徒が圧倒的に多い。特に男子はそうだ。

 詩は理屈じゃないよって言っても、じゃ、なんなの? ってことになって、そこをうまく説明できない。だから多くの国語教師は、詩を教えたがらない。ぼくは詩が好きだったから、教えたがったが、うまくいったためしがない。

 ここは、情景は心情の理由じゃなくて、情景の「中に」心情が埋め込まれているんだ、と説明すればよかったのかもしれない。

 「したたりやまぬ日のひかり」──この表現がすでに、きわめて心情的だ。光が「したたる」というのだから、これは比喩で、光を水にたとえているのだ。空から水がしたたるように、光がずっとさしている、という情景。水から涙を連想するかもしれない。そうなると、空が泣いている、という比喩になっていく。そこまで露骨な比喩として考えなくても、風景が濡れているというイメージでとらえてもいいかもしれない。この詩は最初から、湿度が高いのだ。

 「うつうつまはる水ぐるま」──「うつうつ」は、「うつろ=虚ろ」につながるのか、それともオノマトペなのか。いずれにしても、どことなく物憂げに、眠くなるような音をたてて回っている。その水車を回しているのは、現実的には川の水だろうが、空から流れ落ちる光の水かもしれない、という連想があってもいい。

 そして、遠くに「越後の山」が見えるのだ。ここで越後という具体的な地名が出るので、作者がいる場所が前橋だという実感が出る。前橋から越後の山が実際に見えるのかどうか確かめてないが、まあ、見えるのだろう。その越後の山の向こうには犀星の故郷の金沢がある、ということを思い浮かべる必要がどうしてもある。

 こう読んでくると、犀星の「さびしさ」は、故郷への思いがからんでいることが納得されるだろう。一見明るさに満ちた光景なのだが、作者の心は涙で濡れて、虚ろな思いにはるかな故郷を思っている、なんて考えることができるわけだ。

 こうした鑑賞のしかたは、やはり作品と作者を結びつけなくてはできない。作者と結びつけなければ、「越後の山」は、単なる地名以上のものではないわけだ。

 さて、第2連。こちらは、心情がかなり具体的になってくる。

 「一日もの言はず/野にいでてあゆめば」──朔太郎を尋ねてきたのだが、この日は、朔太郎に用事があって、犀星はひとりで過ごさねばならなかったのだろう。1ヶ月も滞在したのだから、そういう日があるのも当然なのだが、犀星は、ふと、どうしようもない孤独を感じたのだ、と思われる。

 それは、たまたま朔太郎に相手をしてもらえなかったから寂しかった、というのとは違う。もっと深い孤独感がここにはある。

 朔太郎はなぜ犀星とこの日付き合えなかったのか。何か用事があったのだろうが、その用事とはなにか。そんなこと、分かるわけないけど、最近ぼくはこんなふうに思うのだ。

 この日、朔太郎は、妹たちを交えてどこかに出かけるか、家族の行事があったか、とにかく、犀星を同席させることのできない用事があったのではないか。いくら親友でも、どこへでも連れて行くということはできない。といって、歯医者に行くとか、床屋に行くとかいった軽い用事なら、犀星が「一日もの言わず」野原を歩くことにはならない。一日がかりの用事に違いないのだ。

 ここで、犀星の「家庭」と、朔太郎の「家庭」の決定的な違いが問題となる。犀星は、生まれてこのかた「家族」とか「家庭」とかいうものを味わったことがなかった。もちろん「家族総出」の用事など一度たりともなかったのだ。それなのに、今日は、朔太郎は家族とともに過ごしている。たぶん、美人の妹たちも一緒だろう。マンドリンの演奏会かもしれない。その後は、しゃれた食事かもしれない。そこには当然、犀星の入り込む余地はない。朔太郎から離れて野を歩く犀星は、あらためて自分の孤独を実感した。情景は、あくまで明るい春の日だが、犀星の「さびしさ」は底知れないものがある。

 こんなふうな、作者に密着した鑑賞は、この詩の世界を狭くするが、同時に深くもする。いろいろな鑑賞の仕方があっていいのだが、特に犀星の場合は、このほうがしっくりくるのだ。




 

 


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