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日本近代文学の森へ (12) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』

2018-05-17 09:20:28 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (12) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』

「泡鳴五部作[上]発展・毒薬を飲む女」新潮文庫

2018.5.17


 

 『耽溺』を読んでから、この『発展』に入ると、ずいぶんと落ち着いた印象を受ける。『耽溺』の荒々しいムチャクチャな文章が抑制され、丁寧な叙述で、とても読みやすい。急に風格が出てきた感じである。

 といっても、最初のうちは、登場人物についての説明が不足しているために、なかなか人間関係がつかみにくい。しかし、読み勧めていくうちに、『耽溺』ではいまひとつ分からなかったことが、ああ、そうだったのかというところがたくさんでてくる。

 この小説には、『耽溺』を書いている場面も出てくるのでびっくりしてしまう。いわゆる「私小説」の原型だ。「私小説」といっても、主語が「私」となっているとは限らないが、とにかく主人公が、作者とほぼイコールであるのが原則。この小説の主人公は、「田村義雄」となっているが、『耽溺』の主人公と同名である。ただ『耽溺』では、「僕」という一人称を使って語られている。『発展』では、「義雄」「渠(かれ)」という三人称の語りである。三人称にしたということで、「落ち着き」がでたのかもしれない。

 『耽溺』を読んでも、「僕」とその妻の関係がどうなっているのか、よく分からなかった。妻との不和が前提で話が進んでいたわけだが、『発展』には、その関係が詳しく語られている。こういう書き方の小説の場合、『耽溺』だけ読んで評価するというのは、やはり問題があるわけだが、そうはいっても、読者はそんなことまで斟酌はしない。読者はやはり作品の「独立性」を信じているのだ。

 『耽溺』にしろ、『発展』にしろ、主人公が作者にほぼ等しいとなると、作者岩野泡鳴がいったいどういう人間で、どういう生活を送っていたのかをまるで知らないで読んでもあまり意味がない。その点で、完全なフィクションである、SFとか、ファンタジーとかとは、読み方がまるで違うわけだ。

 けれども、暇だから小説でも読もうかなあというような読者にとって、まずは作者の生涯をあらかた知らなければ読めない小説なんて、面倒くさくて最初から手にとる気にもなれない。それも、明治時代の小説家などというものは、実に複雑な環境に生き、複雑な精神構造を持っているから、面倒くささは倍増で、結果、誰も読まなくなる、というのが相場だ。現に、どの文庫を見たって、岩野泡鳴なんてとっくに絶版になっているのだ。

 ただでさえ「活字離れ」(この言葉さえ古くさい)が言われている昨今、夏目漱石や芥川龍之介でさえ、どれくらい読まれているのか分かりはしない。まして、いわんや、泡鳴においておや、である。

 しかし、まあ、国立大学の文学部なんていらないよ、と、時の政府が言うような、文化的後進国(いや後退国か?)において、今さら岩野泡鳴が読まれないなんてことを嘆いても始まらない。そもそも嘆くべきことかどうかも分からない。最近知った言葉だが、ポリティカリー・コレクトネス(人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。)の欠如というべき泡鳴の小説なんか、永久に葬ってしまえという人だっているかもしれない。そんな奴の小説を研究するのに「大事な血税」をつぎ込んでいいのか、なんてことを言い出す人たちだってきっといるだろう。

 そんな世知辛い世の中のことはさておいて、老境に生きるぼくが、だれも読まない岩野泡鳴を読んだとしても、誰に文句をいわれる義理もない。

 ここまで来たのも何かの縁だ。『泡鳴五部作』を云々する前に、泡鳴の複雑怪奇な人生を簡単にまとめてみよう。

(つづく)





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