華有著身不著身
諸人のつらぬる袖に散りかゝる花もわきてぞ身にはしみける
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【題出典】『法華玄義』
華に身に著(つ)くと身に著かざると有り
(天女の散らす)花に、身に付くものと付かないものとがある。
【歌の通釈】
諸人が連ねる袖に散りかかる花(天女の花)も、他と区別してこの身には特別にしみるのだなあ。
【考】
維摩の室には天女がいて、その天女が散らした花が、二乗のみに付いた。花が付かない菩薩たちの中で、惑いを断じ得ぬ自分には、とりわけその花が身にしみて感じられる、と二乗の立場で述懐歌風に詠んだ。春部も終わりに近づき、散りかかる花は、ここでは桜のイメージか。
(以上、『全釈』による。)
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天女の散らした花が、菩薩には付かないというのは、菩薩は一切の迷いを離れているため花も必要としないのだ。花は「仏の教え」の喩えだろう。まだ迷いの残る「二乗」には、その花が散りかかり、教えのありがたさが身にしみるということ。
なかなか難しいが、こんな解釈でよいのだろうか。迷いのある者ほど、「教えの言葉」は身にしみるものだ。