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日本近代文学の森へ (42) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(5)憑き物』その1

2018-09-18 11:11:25 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (42) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(5)憑き物』その1

2018.9.18


 

 「泡鳴五部作」もいよいよ最終章だ。

 話は、「帰ってきたお鳥」の入院から始まるが、すぐに、とんでもない展開となる。

 もともと義男の言動には常軌を逸したものがあり、それは時に狂気を感じさせるものがあったが、ここへ来て一挙にそれが爆発した感がある。

 樺太での事業の失敗、北海道へ戻ってきても、金がないので友人宅の居候ばかり。東京のお鳥への思いと心配、薄野の遊女敷島とのただれた関係などなどで、身も心も疲労困憊の義男は、伊藤博文暗殺の報を聞いて逆上する。

 泡鳴の「自然主義」が異色だと言われる背景には、独特の「日本主義」がある。極端な国粋主義である。それがどこから来たものなのか判然としないのだが、自分の「神秘的半獣主義」の根っこは、西洋思想ではなくて、日本古来の神道にある、などということを、この「五部作」のところどころで言ってきた。

 アイヌ文化への関心も深かったのだが、西洋人が物珍しく取り上げて自分たちの価値観の中で解釈するのを快く思わず、日本人として研究したいのだとも言っていた。

 とにかく極端な「西洋嫌い」なのだ。若い頃にはキリスト教の洗礼を受け、その後も、賛美歌の翻訳などもしてきたというのに、いったいどこからこの「西洋憎悪」が生まれてきたのか、研究してみたい誘惑にかられる。

 そうした義男(泡鳴)は、日本の英雄として秀吉を昔から挙げていた。こんな記述がある。



 然し渠(かれ)は、奇體にも、自分の獨存自我説の生々的(せい/\てき)威力發展主義が確立する頃から、その一例として、日清戰爭にはまださうでもなかつたが、日露戰爭には、その勝利を全くそれが自己その物の發展だと思つた。渠は一たび樺太の土を踏んで、一層この感を深くした。若しここ七八年のうちに、米國との戰爭があらば、また一層の發展だと思つてゐる。
 ところが、この思想を殆ど神託的に體現した歴史上の人物として、義雄は昔では豐太閤、現代では伊藤公を推稱してゐた。
 戰爭は一種の機關である。この機關を動かすには、いかめしい勳章を帶びた軍人といふ職工を動かせばいい。要はただ時代思想といふ油を横溢させるものにあるのだ。
 そして藤公はそれだと。
 藤公不斷の活動がある間は、義雄も自分の努力を軍事上、政治上にも實現してゐるとまで思つてゐた。公の死は、義雄に取りて、自己の一部をそがれたのである。

 


 泡鳴は「自己の発展」を切に願い、そのための行動でもあったのだが、それは自己にとどまらず、日本という国家にも及んでいた。その発展の行き着く先は、「米国との戦争」だ。現実にそういう道を日本が進んだことを考えると、こうした泡鳴の思いは、当時の日本国内に広くあったものだろう。

 欧米の文明は「偽文明」だと断定して、日本文化こそ世界に冠たるものなのだとする考えは、行動としては、一挙に戦争に向かう危うさをはらんでいる。このことは深く心に刻んでおくべきだろう。

 そんな義男の話を面白く思った友人は、中学校での講演を依頼し、義男はそれを受ける。演説でもすればオレも少しは元気になるだろうと思ったからだ。しかし、2時間以上にわたって熱弁をふるったあげく、中学生の爆笑されると、怒った義男は怒鳴り散らして帰ってきてしまう。その演説の様子はこんなふうに書かれている。

 


 先づ伊藤公の略歴から初め、公を以つて現代の豐太閤と爲し、公と時代思想との關係を説き、わが國將來の戰爭と發展との根本的性質に及び、歐米諸國の僞文明を排して實力を尊ぶ野蠻主義の必要を述べ、藤公の一缺點はその野蠻主義を押し通す勇氣に乏しかつたところにあり、また、豐太閤と同樣、心に餘裕、乃ち、ゆるみを生じたのが間違ひであつたと評し、生々、強烈、威力、悲痛、自己中心の刹那主義を説いて結論にした。
 渠にはそれが伊藤公を語るのでなく、自分を語るのであつた。初めは、渠の現在に疲れた低い聲で出た。そこの教頭は氣を利かしたのだらう、三間ばかりもすさらして立ち並ばせてあつた五百名の生徒を、演壇一間ばかりのところまで進ませた。
 然しそれは渠を知らなかつた爲めで、渠は教師をしてゐる時、その聲が教壇のテイブルの表面を振はせるかと思ふほどになつて、教室全體に鳴り響くので、その教室以外の人々にもよく聽え、それが面白い話ででもあると、他の教室の生徒や教師までがその方に氣が取られたくらゐであつた。義雄の熱心が段々加つて來るに從ひ、われを忘れるほどのおほ聲をつづけざまに發し、それで講堂中を振動させた。無論如何におほ聲でも練習があれば調子の取り樣もあるのだが、暫らく聲を出さなかつた爲め、渠は度を失つたのである。
渠が餘り無法な、調子はづれの銅鑼聲(どらごゑ)を張りあげるのを見て、渠に比べるとずツと呑氣な雪の屋(文學士の淺井能文)はづか/\と演壇に進み來たり、
「餘りおほきい聲を出すと、からだに惡いから、注意し給へ」と、こちらに耳打ちした。
「よし、分つた」と答へながらも、義雄はまたおほきな聲を出す。それが却つて滑稽に取れたのだらう、割り合に感動する生徒は少かつたらしい。そして二時間も演説したあとで、
「豐太閤も、伊藤公も、現代の發展的思想に於いては全く僕に屬してゐるのだ——乃ち、僕自身の物である」と叫んだ時、眞率な演者には最も大切な要點であるのに、滿堂の生徒は申し合はせた樣に一齊にどツと笑つた。それが、こちらの調子を一層狂はせてしまつた。渠はぱツたり演説を中止し、一堂を瞰(にら)みつけてゐたが、
「おれは宇宙の帝王だ! 否、宇宙その物だ! 笑ふとはなんだ?」
 どツとまた滿堂の笑ひ。
 義雄は非常に怒つた。そして人々があやまりを云つてとどめるのも聽かず、鳥打帽子を忘れたまま、とツとと驅け出して歸つて來た。

 

 どう考えても常軌を逸した言動である。「田村義男発狂!」の噂がとんだのも当然のことだろう。実際に、この時の義男は、一種の発作に襲われたのであろう。

 義男の「発狂」の噂を聞いたお鳥が心配してすっとんでくる。



 義雄は自分の演説に自分が激動してゐた上に、滿堂の笑ひを受けた爲め一層その激動の餘勢が殘つてゐた。
「中學生なんて分らないものだ。おれがまじめに話を進めてゐるのをどツと笑やアがつたのだ、おれは演説を中止して歸つて來たのだ」と、自分の歸りを來て待つてゐたお鳥に語る。
「でも」と、かの女はなほこちらの樣子を不思議がつてゐるやうにして、「中學生ぐらゐのことにそんなに目の色を變へて來んでもえいのぢやないの?」
「‥‥」渠は二度もかの女からさう云はれて見ると、自分ながらも何だか自分の目が飛び出さうな感じもする。けれども、餘りに高い聲を出した爲めに近眼の工合がちよツと違つたのだらうと考へたので、この方の不愉快さは自分よりも寧ろかのずツとひどい近眼の有馬が年中經驗してゐるのだらうと同情された。
 兎に角、非常に勞(つか)れてゐる。そして手や足が自分のものではないやうに顫へて、自分の目のしたのあたりに絶えずぴく/\と痙攣がある。自分の發する言葉にも、いつも身づから感じて控へ目にする強い、明確な調子がなくなつてる。

 


 明らかに病的である。この後、どういう展開が待っているのだろうか。





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