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日本近代文学の森へ (39) 平野謙・『太宰治』

2018-09-06 16:35:23 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (39) 平野謙・『太宰治』

2018.9.6


 

 近代文学の森に迷い込み、今、岩野泡鳴沼という、瘴気ただよう沼のほとりをさまよっているのだが、ときとして、林間に差す光を見ないわけではない。

 たまたま、泡鳴のことをどう書いているかと開いた平野謙全集に、太宰の死を悼む文を見出した。著作権侵害のそしりを受けるかもしれないが、今は、読む人ととて少ない文なれば、天国の平野も笑って許してくれるのではあるまいか。

 これがその全文である。



太宰治


ひややかにみずをたたえて
かくあればひとはしらじな
ひをふきしやまのあととも


 太宰治はある文章の頭に、右の詩を引いていた。作者は生田長江。私は長江がいつこの詩を書いたか知らない。太宰治の引用によって、はじめてこの男々しく哀しい詩を知ったにすぎぬが、その男々しい哀しさは作者が生田長江であることによって、いっそう読者の心をうつ。ある意味で、宿業の病にたえて《ニイチェ全集》の訳業を完成し、『釈尊伝』を執筆した長江の全生涯は、この詩を生ききったといっていい。しかし、太宰治は──おそらく太宰治もまたこの詩をひそかに彼の座右銘としたかったにちがいない。火を噴いた山のあととも知られぬように。ゆめ深夜の呻きなぞ人に洩らすな。それは太宰治の希った生きかたの痛切なモデルだったかもしれぬ。しかし、ついに太宰治はその詩を生きぬくことができなかった。その詩を心の楯に生きることは、やはり太宰治にはかなわなかった。
 いや、そもそもの出発から、太宰治は胸の埋れ火をかきたて、かきたて、灼熱する炎として読者に強要する危険な道をえらばざるを得なかった。処女作『思い出』以来、われを許せ!と叫ぶ哀切な声を、業火にやかれるおのがすがたとして読者に強いることによって、辛うじてみずからは湖の静謐と化したいと希うしかなかったようである。『津軽』までたどりついたとき、火を噴いた山のあととも知られぬように、と希った内奥の作業は一応完了したかにみえた。しかし、完了したのはその文学だったか、生活だったか。許された子、許された父としてのわがすがたは、まことのわれにたがわぬか。火を噴いて錯乱するわが絵すがたこそ、やはりまことのわれを宿してはいないか。
 不安と悔恨はたえず太宰治を噛んだにちがいない。しかし、もはや生きなおす術とてもなかった。あとがえりのできぬ文学と実生活の間道を、太宰治は綱わたりのようすすむしかなかった。


択ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり


 果して太宰治はえらばれたもののナルシスムに、心やすらいだひとときを持つことがあったろうか。エリートたる自侍の心はつねに破滅の不安と結ばれざるを得なかった。われからえらんだ刃わたりのひとすじ路。ここに太宰治独特の文学的魅力の源泉がある。だが、そのような文学のつくりてというものは?
 「私は、やはり、人生をドラマと見倣していた。いや、ドラマを人生と見倣していた」という告白は太宰治の生涯を簡潔に要約している。実生活と芸術との意識的な倒錯! それがひそかな規範とした生田長江の生涯からいかにとおく距たったものだったかは、もはや彼は十分自得していたにちがいない。そのような太宰治の生涯を勝利とよぶべきか敗北とよぶべきか、私は知らぬ。しかし、すくなくともその自裁がみずからの文学と実生活との最後の仕上げだったことだけは疑いない。あなたは「人生の俳優」という陥穽にみちた道をみずからえらび、その道に殉じた。傍人がとやかくいうことがあろうか。もはや私はもだしたい。合掌。


(昭和二十三年六月)



 太宰治の「自裁」は、昭和23年6月13日だから、この文章は、その直後に書かれたわけだ。ある程度、予感されてはいただろうが、突然の訃報を聞いて、これだけの文章を書けるものだろうかとただただ感嘆するばかりだ。

 この文章で、初めて「生田長江」という作家に興味を持った。そちらの道も覗いてみた。すごい世界が広がっている。

 嗚呼、文学の森は、どこまでも深い。




 


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