プルサーマル計画を憂慮する有志の会

原発問題に関して投稿します。

戦争の「放棄」とは?

2014-07-02 10:44:15 | 日記
 「国民の命と平和な暮らしを守るため」、安倍首相は集団的自衛権による武力行使の閣議決定について、こう記者会見で述べられました。「現行の憲法解釈の基本的考え方は何ら変わらない」と。しかし、集団的自衛権による武力行使を行ったからといって、日本国民の命が守られるようには到底思えません。また、戦前戦後通じて、日本が「平和」であったことはなく、その「平和」が守られてこなかった「現実」に安倍首相は目を瞑っていると思います。

 軍事的侵攻(介入)も、経済的侵攻(介入)にも、政治的侵攻(介入)にも「差別」(しゃべつ)はなく、日本は、戦前から戦後もずっとそうした「侵略」を続け、資源や労働力を搾取し、利益を得、また自動車等の(人を殺傷する能力のある)武器を輸出して外貨を稼いできました。「平和」からは程遠い姿です。国内外の環境は汚染され、(国内外の)夥しい数の民が健康を害し、死んでゆきました。それが世界の動かし難い「現実」であって、その「構造」の中で生き残る為には、そうした「侵略」行為から離れて生きることなどできないのです。

 「平時」においても「有事」においても、私たちは「戦って」いるのです。血まみれになりながら、敗れ、死んでいくのです。それが嫌だから、さらにもっと死に物狂いで戦うのです。それを「放棄」することは、私たちにはできません。只、仏陀は妻も子どもも親も、そして国さえ「捨て」ました。戦うことを「放棄」したのです。自らが殺されようと、妻子が殺されようと、同胞が殺されようと、誰も「殺さない」のです。これが真の意味の全き「平和」です。

その「平和」を仏陀は手に入れたわけです。勿論、全ての人がこの教えを実践できれれば、世界の「平和」が実現できるでしょう。しかし、私にはその実践ができません。戦争を起こそうとする安倍首相と「戦って」(戦争をして)いるのです。戦争を放棄するのではなく、(せいぜい竹槍ぐらいですが)自ら手に武器を持ち、自らが「正しい」と自分の「正義」を信じ、「聖戦」に殉じているのです。これでは、1億劫(ごう)経っても「平和」は訪れません。私の心の「平和」も訪れません。しかし、それでも、私は「戦争」を放棄できないのです。だから、私に「平和」はないのです・・・

P.S. ガンジーの「座右の銘」として知られる「バガバッドギーター」はヒンズー教の経典です。(内容はもう殆ど憶えてないのですが)ヨガの教えにとても近いものがありました。只、仏陀の教えと根本的に違う点があります。「戦う」ことを否定しないのです。寧ろ、立ち上がって「戦う」ように鼓舞しています。これはヒンズー教だけではなく、キリスト教にも、イスラム教にも同じく「聖戦」の教えがあります。宗教と政治が分離している国や民族はこの世界にはありませんから、この世は「戦い」の世界だと言えるかと思います。人間界は「修羅の国」なのです。只、只の「修羅の国」ではありません。仏陀のような「戦わない」人や教えがあるからです。それに殉じることができるか、それこそが「平和」に繋がる道だと思うのです・・・

P.S.2 「戦争」を放棄するとなると、(福沢の言うがごとき)交易等の経済活動も「放棄」しなければいけません。資源を採掘したり、(労働力として)民を搾取したり、環境を破壊したり、公害を引きこす製造活動や、はたまた人を害する(自動車などの)製造・販売・輸出などの禁止など、ありとあらゆる経済活動、それに伴う政治的活動を「放棄」しなければ「平和」は来ません。(極端な言い方をすれば)全てものを「放棄」した時しか「平和」は成立しないのだと思います。抑止力のために軍隊を持つ、生活のために経済活動をする、そうした生き方から離れられない以上、「平和」からは乖離した「戦い」(戦争)の真っ只中で生きるしかないのです。それが私たちの背負った「業」だと思うのです・・・

P.S.3 よく「戦前に戻すな」というフレーズを耳にします。世界の「構造」は依然、戦前から戦後と変わっていませんから、戦前、米英仏らと戦った日本に「戻すな」ということなのでしょうか?戦後は確かに、米英仏らと「共に」戦う(戦争する)ようになり、日本の軍事的牙を抜く「9条」のお陰で、直接的な戦闘には巻き込まれなくなりましたが、(上記のように)日本は国内においては、交通事故死や自殺、公害などの「内戦」に倦(う)み疲れ、自動車を輸出し交通戦争を助長し(毎年100万人が犠牲者となる「戦争」は他にはありません)、また湾岸戦争やイラク戦争など、大義すらない戦争に加担してきました。戦後「平和」になったという人がいたら、沖縄の米国による(今尚残る)占領政策をどう思われているのでしょうか?自殺者は、この世界の「犠牲者」なのではないのでしょうか?公害により死んでいった幾多の方々は、経済「戦争」によって死んでいったのではないのでしょうか?「平和」など、戦前から戦後、いえ、この歴史上存在したのでしょうか?もうそろそろ、(本日の)私の「戦争」も終わりにします。やはり、私には「戦争」の放棄は無理のようです。それでは、ごきげんよう、さようなら・・・

by「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」 (平成26年7月2日)