千波湖は、いまから3000~5000年前に古代の那珂川の堆積物により上市台地と千波緑岡台地の間にできた浅い沼でした。江戸時代になると水戸藩の城下整備に伴い水戸城南側の天然の水堀となり、北側を流れる那珂川とともに防衛上の重要な役割を担いました。
当時の千波湖は、約1,275,000㎡(約386,000坪)といわれ、現在の約3.8倍の大きさでしたが、大正末期から昭和前期にかけての埋め立てにより今の姿になりました。
ここの海抜は約9m、大洗海岸までは直線で約12.5Kmですが、湖畔には約6000年前の縄文時代前期の柳崎貝塚もありますので、縄文海進時にはここまで太平洋が入り込んでいたそうです。
遠方東側の真ん中あたりが水戸城のある方向です。千波湖は水戸城を守る要害のため、当時は禁漁や禁夜船などの措置がとられていたと伝わります。
平均水深は約1.0mのため分類上は「沼」になりますが、昔から千波湖とよばれており、また法制では河川(桜川の一部)とされています。
標高差約20mの河岸段丘の上にある偕楽園が見えます。庭園としての偕楽園には池を掘らず、借景としての千波湖を活かしたと「ブラタモリ」でも紹介されました。
千波湖の周囲はちょうど3km、桜並木の遊歩道がぐるりと周っているので、マラソン大会や市民のウォーキングやジョギングの名所になっています。
千波湖畔の桜は30種、約750本で、いま咲いているのはほとんどソメイヨシノですが、少し遅れて八重のボタン桜が追いかけて咲き出します。
珍しい品種のボタン桜については、拙ブログ「千波湖畔の八重桜…変わり種はお好きですか? 2021.4.14」でご紹介させていただきました。
この千波湖(33.2ha)や偕楽園(12.7ha)を含めたこの一帯の緑地は、「偕楽園公園」とよばれ総面積約300ha、都市公園としてはニューヨークのセントラルパーク(340ha)に次いで世界第2位になります。
市の中心部に残るこの大きな自然の恩恵を受けるだけでなく、それを守り育てていくのがこれからの市民の大きな課題になると思います。