水戸城は、鎌倉時代初期に常陸平氏の一族馬場資幹が城を築き、江戸氏、佐竹氏を経て家康の11男頼房公が水戸藩初代となり、明治維新までの260年間水戸徳川家の居城となりました。
城は南北の千波湖と那珂川を天然の堀として東西に配置された連郭式平山城で、建築物は戦火などでほとんど焼失していますが、主郭だけでも東西1200m南北300~500mの城域に、壮大な堀と土塁が当時の面影を偲ばせてくれます。
本丸(左側)と二の丸の間の堀は深さ20m以上あり、JR水郡線が敷かれています。
本丸は水戸一高の敷地になっていますので、入口にある薬医門までしか入ることはできません。この門は佐竹氏時代の建築とされ、郊外に移設してあったため戦火を免れた唯一の建造物になっています。
藩庁や奥御殿が置かれたのは二の丸でした。ここも学校が3校あり文教地区になっています。
城跡にふさわしい景観整備が行われ、学校の塀も白壁で統一されました。
復元された杉山門、那珂川河岸方面からの登城口でした。
右手の門をくぐると見晴らし台があり、断崖に立つ水戸城の鉄壁の守りが実感できます。
樹齢400年以上の椎の木が見えます。
水戸二中の正門も城址に違和感なく収まっています。ここには2代藩主光圀公が編纂を始めた大日本史の史局「彰考館」がありました。
右手にある二ノ丸展示館では水戸城に関する資料や城址からの出土品などが公開されています。
復元された二ノ丸隅櫓ですが、周りには彩ってくれる桜が見つかりません。
二の丸(右側)、三の丸間の空堀もその深さに驚かされます。空堀の底には旧6号国道が走っています。青い花はハナダイコンでしょうか。
二ノ丸に入口にある大手門を額縁にして、大手橋先の三の丸にある藩校弘道館の桜が見えます。
9代藩主の斉昭公は三の丸にあった重臣屋敷を立ち退かせて藩校弘道館を建てました。当時300以上の藩校の中で随一の規模でしたが、明治元年の藩内抗争の最後の戦いで、正門、正庁などの一部を除いて焼失してしまいました。
弘道館の中の桜については、拙ブログ「弘道館の桜 2020.3.29」で紹介させていただきました。
藩校の敷地でも三の丸は城の一部ですので土塁と堀に囲まれ、入口は門で厳重に守られていました。復元された北柵門、右手の土塁上には、茱萸(グミ)の大木が花を開いています。
昭和5年建築の旧茨城県庁には桜がよく似合います。近世ゴシック建築様式のレンガ張りの外観が重厚な印象を与え、ロケによく利用されるスポットになっています。
三の丸西側の空堀です。地形上地続きになっている西側には、この先の市街地にも大きな外堀が二つあり、水戸城の総構えを構成していました。
県立図書館前の枝垂れ桜は、第8代県令人見寧が植えたと伝わります。元幕臣で函館戦争にも参加した硬骨漢で、この三の丸が陸軍の練兵場になる計画を防ぎ、弘道館や県庁の敷地としての存続に尽力しました。
藩校内にある鹿島神社は、藩校の精神「神儒一致」から儒学の孔子廟と対で建てられました。
藩校の剣術方教授をしていた小沢寅吉が、明治になってから「文武一致」を掲げて開いた北辰一刀流の道場「東武館」は、今でも全国選抜少年剣道錬成大会を開催するなど、民間剣道場としては特異な存在として知られています。
弘道館公園の梅林の下はタンポポの絨毯に…うれしいことに在来種の「ニホンタンポポ」でした。
桜は日本人にとって特別な感情を抱く花だと思います。咲いている時期は心穏やかならず何か急き立てられるように、ついつい拙いブログ3本を続けてしまいました。
つくづく平和のありがたさを感じると同時に、権力をもちすぎた独裁者の平和を踏みにじる行為にさらに強い憤りを感じました。
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平