顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

最後の水戸藩主の…戸定邸

2018年11月22日 | 歴史散歩

徳川斉昭公の18男で最後の水戸藩主の昭武は、家督を甥の篤敬に譲って隠居し明治17年(1884)に、水戸街道の宿場町で水戸藩とのつながりの深いこの地(千葉県松戸市)に2年かけて建築した屋敷に移りました。

比高約20mの舌状台地は、千葉大学園芸学部とともに中世の城郭松戸城の跡で、築城時期は明らかでありませんが、小田原の役で廃城になり、江戸時代は天領で旗本知行地や将軍の鹿狩の休息地にもなったそうです。

かつて7haを超えていた敷地の約1/3の2.3haが現在、戸定が丘歴史公園となっており、戸定邸と庭園、戸定歴史館から構成されています。

明治時代の徳川家の建物がほぼ完全に残る、純和風、木造平屋一部2階建ての邸宅は増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及びます。旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が高く評価され重要文化財に指定されています。

大名屋敷の系譜上にありながら、徳川家は権力の座を離れたため、規模を縮小し最上級の杉材を多用しながら華美な装飾を意識的に排除した空間になっています。
ここは表座敷の客間で実兄である元将軍徳川慶喜や多くの皇族も何度か訪れています。

客間の欄間には徳川家の三つ葉葵紋でなく、原型である賀茂神社の二葉葵が彫られています

この部屋からは、南西に庭園が広がり、西奥には富士山が遠望できます。

奥座敷は、戸定邸の主昭武の部屋ですが、昭武は客間棟の一室を居間にしていたので、後妻となった斎藤八重の居間として使われ、夜にご寝所となったと推測され八重の間とも呼ばれています。八重は幕府御家人斉藤貫之の三女で当初側女中として仕え、後に後妻として入籍し三男三女をもうけました。

戸定邸の一番奥にある離れ座敷は、昭武の生母、秋庭(しゅうてい)の居間です。南西が開かれ、欄間には蝶や雀があしらわれ軽やかな雰囲気を出しています。秋庭は万里小路建房の六女、睦子(ちかこ)で斉昭公の側室になり五男一女をもうけました。

邸内は、来客用の公的スペース、家族の私的スペース、使用人の使うスペースと3つに別れ、廊下で繋がれています。

釘隠しの葵紋も、何故か控えめな意匠になっているような気がしました。

洋風技法による芝生面の庭は我が国現存最古で、樹木の木立を主要景観に採り入れる手法も類例がないそうです。
なお、毎月の「戸定の日」(5の倍数の日)には、普段入れない庭園に建物から降りて見学できるそうです。

戸定が丘歴史公園は江戸川や富士山を眺められる高台で、昭武の植えたコウヤマキなどの巨木や四季折々の花を楽しむことができます。

なお、戸定歴史館では、12月24日まで企画展明治150年 「忘れられた維新 静かな明治」が開かれています。戸定邸の主、徳川昭武の幕末から明治かけて時代の波に翻弄された生涯が斬新な視点で記述されていましたので、全文を下記に引用させていただきました。

第1章:プリンスの覚悟-パリへの旅立ち
 慶応2(1866)年11月、昭武は、幕府から思いがけない命を受けます。将軍家の一員である清水家を相続すること、翌年の万国博覧会に参加することでした。
 将軍・慶喜は13歳の弟、昭武を将軍名代(代理)としてパリ万博に派遣しました。慶喜は幕府再生の切り札としてフランスから巨額の資金調達を行おうとしていました。それを確実なものとするため、昭武に、各国君主が集う最高の外交舞台である万博で幕府の威信を示し、ナポレオン三世との親交を結ぶことを期待したのです。重責を果たすため、昭武は、2か月も要する命がけの航海を経てパリに赴きました。当時の航海技術では遭難の危険は避けられません。将軍候補を外国へ派遣する前例のない決断でした。
 少年昭武は、フランス皇帝、ロシア皇帝たちと華麗なる宮廷外交を行いました。しかし、フランスの外交政策の変更により資金調達は不調に終わります。追い討ちをかけるように幕府瓦解の知らせが昭武のもとに届きました。ヨーロッパのマスコミで次期将軍と華々しく報じられた昭武は幻の将軍となったのです。

第2章:もうひとつの維新-為政者としての昭武 
慶応4年(1868)3月の時点で、慶喜以下、国内にいる主だった徳川家の人物は新政府に恭順を示していました。しかし、一人だけ、意思を確認できない人物がいました。パリにいる徳川昭武です。当時の通信手段では意思確認に4ヶ月近くを要したからです。新政府首脳の三条実美は岩倉具視への書翰で昭武がフランスにいることに対して「後患深く可畏候」つまり、後の患を深く畏れるべきだと書いています。抵抗を続ける旧幕府勢力が、昭武を旗頭に迎えることを恐れたのでしょう。まだ脆弱であった新政府にとって、徳川昭武は危険人物と見られていたのです。懸念材料を払拭するため、新政府は昭武に帰国命令を出しました。帰国後の罪は問わないという含意も込めて、水戸藩主の座を用意した上での命でした。
 兄が謹慎処分を受け入れたことを確かめた上で、昭武は帰国を決意します。海外にいた徳川家の主要人物を巡るこの動きは忘れられた維新とも言えるでしょう。
 元号が明治となったこの年の11月、昭武は帰国しました。明治4年まで、彼は水戸藩主、同藩知事として地域の為政者ではありましたが、この後は政治に係わることはなく、新しい道を歩むことになるのです。

第3章:見出した夢-文化財を創る 
政治と係わらなくなった徳川昭武は、大名家ではなくなった水戸徳川家の家政運営を担い、明治年9年からは約5年のパリ再留学を行いました。維新の混乱により、充分な勉学が出来なかったという思いがあったのでしょう。
 帰国翌年の明治15年、彼は牧場開発と松戸に彼の私邸・戸定邸建設を同時に進めます。建物建設途中の明治16年には家督を譲り隠居、翌年6月には戸定邸に移住しました。建物完成後は3期に及ぶ作庭を陣頭指揮し、同23年に庭園を完成しました。ここを拠点とした狩猟、釣り、園芸、作陶、そして写真などの趣味は各分野の専門家との交わりを伴いながら深みを増していきました。
作庭には海外で見聞した知識と共に大名家に生まれ育った感性が反映され、写真には東洋西洋両方の絵画技法に基づいた構図と巧みな陰影表現が見られます。彼が好んでレンズを向けた働く庶民の姿は、作品として結実し、貴重な歴史資料ともなったのです。彼が心血を注いで完成させた戸定邸の建物と庭園は、国の重要文化財と名勝に指定されています。
 明治になり、政治を生きた昭武は、独自の美意識で新しい文化を創り出したといえるでしょう。

エピローグ:維新、閉幕-兄弟の絆
 明治維新の栄光の影で、かつて為政者だった兄弟は、政治とは一線を画すべく自らを律し、静かに暮らすことで徳川家を明治新国家へソフトランディングさせました。両者が趣味に没頭する姿は政治とは無縁であることの暗喩のようにも見えます。
 明治31年3月、兄・慶喜は維新後初めて明治天皇に謁見し、実質的な名誉回復を遂げます。昭武は2度にわたり兄を戸定邸に招き、お祝いをします。将軍であった慶喜の心中を最も深く共有できた人物は弟・昭武だったのでしょう。当事者にしか知りえない景色が見えたでしょう。
 明治43年7月、徳川昭武は兄に先立ち亡くなります。明治35年6月に公爵を授かっていた兄は、この年の12月に隠居をしました。2人の維新の区切りを感じたのでしょうか。                         (戸定邸のホームページより)