水戸市金谷町にある日鷲神社の例祭に揚げる大幟は、水戸の先人菊池謙二郎の書という話を、氏子のTさんから聞き11月23日の朝に拝見してきました。
この地区の50数戸の氏子の皆さんが守る日鷲神社は、茨城県神社誌によると創立は不詳、天保年中に再建、明治初年幹周二丈余の巨杉へ落雷、七日七夜燃え続けたといふ、と出ています。
祭神は天日鷲命(あまのひわしのみこと)で、東日本では紙の祖神として知られています。県北の鷲子山上神社に鎮座しているのが有名で、一帯は烏山を中心とした紙の里としての歴史がありますが、この地区の紙との結びつきはわかりません。
さて、お目当ての大幟は社号が楷書体と行書体で書かれた一対でした。
菊池謙二郎は水戸藩士の家に次男として慶応3年(1967)誕生、帝国大学予備門などでは正岡子規や夏目漱石、秋山真之などと同期でした。明治22年には子規が水戸へ謙二郎を訪ねてきた際に著した「水戸紀行」が知られていますが、結局行き違いで会えず、立ち寄った偕楽園で詠んだ「崖急に梅ことごとく斜なり」の句碑が偕楽園の南崖に建っています。
この幟は大正11年書となっていますが、その1年前には、大正元年(1912)から水戸中学(現水戸一高)の校長をしていた謙二郎が、講演「国民道徳と個人道徳」の内容による舌禍事件で免官され、復職を求める水戸中学生徒全員による「慕菊池謙二郎先生」という幟旗を立てての同盟休校事件がありました。
その後大正13年(1924)から衆議院議員も務め、「藤田東湖伝」「義公伝」「水戸学論藪」など数々の著書を残しました。昭和20年(1945)逝去(享年78歳)
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