顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

稲田御坊西念寺   笠間市

2018年11月18日 | 歴史散歩

稲田御坊の名で親しまれている稲田山西念寺は、親鸞が妻の恵信尼公や子供たちとともに40歳~60歳位までの約20年間住んで、教行信證を執筆し関東一円への布教も行った浄土真宗の聖地です。
建保2年(1214)この地に親鸞を招き本人も入信した稲田頼重は、厚く仏教に帰依した初代笠間城主の笠間時朝の叔父で、宇都宮氏の一族です。

欅などの大木に囲まれた長い石畳の参道を抜けた山門は茅葺きで、鎌倉~室町期の建立とされています。「浄土真宗別格本山」の大きな石碑に、親鸞聖人教行信證御製作地と記されています。

現在の本堂は1995年の建立、旧本堂は1721年に建てられましたが天狗党の乱の余波で明治4年(1841)に焼失したとされています。しかし明治になってからの乱の詳細は調べてもわかりませんでした。

ご本尊は阿弥陀如来像は、慶長2年(1597)宇都宮国綱の代で断絶した際、宇都宮城から持ち出して奉納されたと伝わっています。なお宇都宮氏は国綱の嫡男義綱が寛永年間に水戸藩に仕え、その子隆綱は藩主頼房の娘梅子を室とし、1000石を賜り家老も務めました。



境内の「お葉付き銀杏」の巨木は、県の天然記念物になっています。
親鸞聖人お手植えと伝わりますが、明治4年の大火で類焼し後に樹勢が回復したそうで樹齢300年、樹高約35m、幹囲約7.5mと記されています。銀杏の変種で葉の上に実をつけますが、なかなか実物を目にすることは困難です。

京都で亡くなった親鸞は火葬されて大谷に埋葬された後、遺骨の一部は稲田に戻って御頂骨堂に治められました。これは妻の恵信尼公が京都で親鸞の世話をしていた末娘の覚信尼公に墓を暴かれる心配を伝えて分骨したと伝わっています。

境内の山腹には、太子堂、太鼓堂、鐘楼、墓標碑などが散在しており、この一帯が厳かな雰囲気を漂わせている空間になっています。

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