顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

佐竹一族の北の守り…久米城址 (常陸太田市)

2018年04月18日 | 歴史散歩

久米城は、比高80m(標高100m)の地に、南北700m、東西400mの広大な規模をもち、鹿島神社本殿がその2郭にある本城(東城)、北側に竜貝城(西城)と北の出城、南側の尾根に南の出城と4つの城が連なった山城です。

麓の久米集落に城主や家臣の居館があり、山城部分はいざという時の詰の城としての総構えの構造でした。

〈本城跡〉
鎌倉時代に大掾氏が館を設けたのが最初と伝えられていますが、その後は常陸源氏の嫡流である関東の名門・佐竹氏の14代佐竹義治の四男で、佐竹義信を祖とする佐竹北家の居城として知られます。もともとは藤原秀郷の末裔でその後佐竹氏に従属した小野崎氏の一族、久米氏の居城でしたが、戦国時代初期、佐竹氏は一族でもある山入城主・山入氏と対立(山入の乱)しており、義治はその攻撃に備えて久米氏を部垂城へ移し、子の又三郎義武を城主にしました。

〈西の城跡〉
文明10年(1478)11月に山入義知に攻撃され、義武は戦死しますが、翌月には義治は城を奪還しています。その後、義武の弟の義信を初代久米城主とし、佐竹氏の居城である太田城の北方に位置することから義信以降、子孫は「佐竹北家」や「北殿」と呼ばれ、佐竹一門の重鎮として本家を支えました。

〈南の出城跡〉
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田転封に従って廃城となり、佐竹五家も宗家とともに秋田に移り、後に北家は角館を領しました。
尚、現在の秋田県知事佐竹敬久氏は、この佐竹北家の末裔で21代目です。

〈堀切と竪堀、∨字谷〉
現在城址には土塁や虎口のほか、堀切で遮断された曲輪群や竪堀、急峻なV字谷などの遺構を良好な状態で確認することができ、佐竹氏時代の城址の中では数少ない貴重な城跡です。

〈物見台跡〉
西の城の北側には一段高い物見台があり北方を見下ろしています。
佐竹氏時代には100城を超えたといわれる支城の中でも最大級の規模、太田城の北辺を守る重要な拠点だったことがわかります。

〈北の出城跡〉
地元の有志の方々による散策路の整備や丁寧な案内板の設置などが行われ、遺構を周って中世のロマンを充分に楽しめるスポットになっています。主要な場所には、五本扇に月の佐竹の旗が翻っており、まるで戦場の鬨の声が聞こえてくるようです。

本城の一段下、2郭には鹿島神社が建っています。城址説明パネルとパンフレットまで用意された道路脇の駐車場からは、神社の参道を上がれるようにわかりやすく整備されています。地元の保存会の方々に、拍手と感謝の念をおくりたいと思います。