顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

笠間城 下屋敷跡

2018年04月03日 | 歴史散歩

笠間城は鎌倉時代初期に宇都宮一族の笠間時朝が築いてから370年余、18代綱家は宗家に逆らって北条氏に味方したため、秀吉の命令で攻め滅ぼされました。その後慶長3年((1598)に秀吉配下の名将蒲生氏郷の家老蒲生郷成が3万石で入封、この時に石垣などが整備され、中世の山城から関東では珍しい石垣天守台のある近世の山城に大きく変貌しました。

その後、城主になった浅野長直は、山頂近くの本丸にあった藩庁が狭く、しかも毎日山道を行き来するには大変な苦労があるため、城下町に近い現在地に移し、周囲を土塁と白壁の塀で囲んで平屋造の荘厳な御殿を建てました。
現在その一帯は、佐白山麓公園として市民の憩いの場所になっています。

長直は下屋敷が出城の一部なので幕府に届けなかったところ、新城を建てたとの噂が立ち、幕府は監察使を派遣することになりました。そこで急遽塀を取り壊し、一夜にして木の枝で作る粗朶(そだ)垣根に造り替え、事なきを得ました。しかし、急場凌ぎのため杭柱が逆さに打ち込まれた所もあったので、下屋敷の逆杭(さかさくい)という伝説になりました。(笠間市ホームページより)

中世の山城時代にはこの本丸跡が笠間城の中心でした。標高176mの地にあり、下屋敷からは標高差120m、屈強な侍でも毎日通うのは大変なことです。

天守曲輪の東で岩石が露岩しているこの場所は、石倉と呼ばれています。この花崗岩を切り出して蒲生郷成の時代に石垣、石段など曲輪の整備を行ったのではないかとされています。

寛文2年(1662)当時の笠間藩主井上氏の家臣中島友重が、佐白山正福寺の梵鐘を借り受け、大町にあった極楽寺に鐘つき堂(鐘楼)を建て、鐘をついて城下の人々に時を知らせたのがこの時鐘の始まりといわれています。維新後明治22年に再開し、昭和39年まで、4代にわたる撞き手が朝5時から夜7時まで、町の人々に時を告げていたのを偲びこの鐘楼が再建されました。

笠間満州分村懐古之碑  碑文によると、昭和18年元満州国東安省宝清縣南哈嘱地区に笠間町を母体とした第12次開拓団が、14000町歩の開拓に取り組むも終戦により計画の半ばで幾多尊き殉難者を出し挫折の止むなきに至り、その殉難者を慰霊するために昭和28年建立とあります。

忠臣蔵の大石内蔵助の祖父で、笠間藩家老だった大石良欽の屋敷跡がこの下屋敷跡のすぐ近くにあります。浅野氏は、元和8年(1622)から笠間藩主で、その後正保2年(1645)赤穂へ移封になり56年後に討ち入り事件が起こります。

公園内に義士顕彰碑とその隣には、その謂れを記した義士顕彰碑建立記が建っています。これには、「誠は人の道にして古今を貫く大道たり…」と、赤穂浪士の忠義を称える文面が刻まれています。