顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

正宗寺(常陸太田市)…佐竹氏菩提寺の宝篋印塔

2021年10月19日 | 歴史散歩

萬秀山正宗寺(しょうじゅうじ)は、この地方に450余年君臨した佐竹氏の菩提寺として知られている臨済宗円覚寺派の古刹です。

延長元年(923)に平将門の父、平良将が律宗の増井寺を建立したことに始まります。その後真言宗に変わり勝楽寺と改称され、鎌倉時代には佐竹氏8代行義が寺中に正法寺を建立しました。南北朝時代になり、9代貞義の庶長子月山周枢が臨済宗に改め、夢想国師を中興の勧請開山とし、自らは開基二世となり寺中に正宗庵を設けました。

室町時代になって10代義敦がこの正宗庵を正宗寺と改め、その後佐竹氏歴代の菩提寺として庇護されて、勝楽寺、正法寺など共に3カ寺合計で寺領4万石を給され、関東十刹のひとつにまで数えられました。しかし、天正年間(1573~1593)の兵火による多くの堂宇焼失のため勝楽寺と正法寺は衰退し、正宗寺だけが残りました

さらに佐竹氏の秋田移封に伴い庇護者を失いますが、江戸時代になると徳川家光より朱印百石を拝領し、また水戸藩初代頼房以来歴代藩主の厚い尊崇を享けました。天保9年(1838)総門を残し焼失し、現在の本堂は昭和63年(1988)に建てられたものです。

本堂には五本骨扇と月丸の佐竹紋、扁額は臨済宗円覚寺派の総本山管長円覚慈雲の書です。

境内の柏槙(びゃくしん)はイブキ(伊吹)の1種で禅寺に多く見られ、樹齢650年、樹高約10m、天保9年(1838)に正宗寺が火災にあったときの焼け焦げた跡が残っています。

正宗寺裏山中腹にある墓地の一角に佐竹氏の墓所があります。

ここは佐竹氏歴代の墓所と伝えられ、13基の宝篋印塔が並んでいます。境内の各所に散在していたものを戦後集めたと案内板には書かれています。佐竹氏が秋田に移封されたときに一族の墓石も運んで行ったとも伝わりますが、位牌だけを秋田に移したのでは、という説もあります。
いずれにしても何代の誰の墓石ということはわかりません。

また、佐竹氏の秋田移封に伴い、一族の菩提寺で秋田に移ったお寺も多く、その中の天徳寺には歴代の墓所があるそうですが、秋田佐竹氏の初代佐竹義宣からが歴代として埋葬されているようなので、常陸から墓石は持っていかなかった? のではないでしょうか。


また近隣の清音寺(城里町)、浄光寺(常陸太田市)、常光院(常陸太田市)にも、佐竹氏一族の墓と伝えられる宝篋印塔や墓石が残っています。

特に清音寺の宝篋印塔は、佐竹氏8代貞義(1287~1352)と9代義篤(1311~1362)の墓とされていますので、それに似た特徴から正宗寺の宝篋印塔も同じ時代のものといわれています。
なお、清音寺については拙ブログ「清音寺…罹災3度の古刹2020.7.7」で紹介させていただきました。

宝篋印塔は宝篋印陀羅尼を納めるための塔でしたが、やがてこの形をした塔の名称となり、供養や墓碑の石塔として中世以降盛んに使われました。笠の四隅にある馬の耳のような「隅飾り」が直立している特徴は、鎌倉時代後期から南北朝時代のものとされるそうです。

約1000年以上の歴史を持つ歴代住職の墓所、たまご型をした塔身は無縫塔という名で、禅僧の墓石としてよく用いられてきました。「無縫」は無形無相という禅の思想を表しているそうです。

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