顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

那珂(那賀)一族の終焉の地…そして江戸氏へ

2022年07月20日 | 歴史散歩
常陸太田市増井の勝楽寺跡に那珂(那賀)一族の終焉の地があります。

那珂氏は、平安時代末期(1090年頃)藤原秀郷の子孫公通が太田太夫として久慈郡太田郷に着任し、その孫通資が那珂川北部の那珂郡を領して、那珂氏を名乗ったというのが通説ですが、詳細は不明のようです。
鎌倉時代を経て約240年間この地に勢力を持った那珂氏は、南北朝の争乱では南朝方に立ち、北朝方に与した佐竹家と争うことになりますなります。


南北朝の攻防が行われた瓜連城址(那珂市)の北側の土塁跡と切岸です。

一時は優勢になったこともありましたが、この地の南朝の拠点で楠木正成の甥、楠正家が籠った瓜連城が落とされ、金砂山城に佐竹氏を攻めていた那珂通辰は背後を突かれ、この場所で一族34人(43人とも)が自刃したとも切られたともいわれます。これによって那珂氏は滅亡し領土も佐竹氏のものになりました。

那珂通辰の墓と伝わる墓石です。


那珂下総守藤原通辰之墓碑です。明治20年建立とされています。手前の土饅頭は一族のものの墓です。


土饅頭に小石を置いただけの一族の墓は粗末なもので、ほとんど風化しつつあります。

一族のうち逃れて生き残った那珂通辰の子通泰は、やがて再起して北朝方に服属し戦功を挙げ、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったといわれます。この通高は佐竹氏9代義篤の娘を娶り、嘉慶2年(1388)には南朝方の難台城攻めで戦死し、その褒賞として子の通景は鎌倉公方氏満から河和田、鯉淵、赤尾関などを与えられます。


河和田城(水戸市)は東西約510m、南北約600mを主郭とする広大な城郭でした。

河和田へ本拠を移した江戸氏はやがて応永33年(1426)大掾氏の水戸城も攻め取り、水戸城主として約165年間水戸を支配下に置くようになりました。
しかし天正18年(1590)小田原城を攻め落とした秀吉に常陸国の所領を安堵された佐竹氏が、水戸城など江戸氏の諸城を攻め落として江戸氏は滅亡、常陸54万石の領主になった佐竹氏も家康により出羽国に移封され、御三家の水戸藩が誕生するという歴史の波が押し寄せました。


那珂通辰の墓に建つ案内板には、この那珂氏の居館が那珂西城とされていますが、最近では那珂西城は、大中臣氏流の那珂(中郡)氏の居城だったという説が有力のようです。この大中臣氏系那珂氏は、那珂実久が頼朝の御家人として丹波、摂津、山城の守護も兼ねていましたが、鎌倉幕府内部の抗争などから南北朝時代には丹波国に移住して金山氏、桐村氏の祖になったと伝わっています。

那珂西城址(城里町)の南側の土塁跡です。


そこで南北朝の乱で一族が滅びた那珂氏の居城といわれる那珂(那賀)城址を訪ねてみました。常陸大宮市那賀地区の久慈川の支流緒川に張り出した標高約75mの河岸段丘の端に位置しています。

地元の人に尋ねると城跡には何にも残ってないよと言われた通り、台地の上にはかすかに土塁と空堀らしきものが散見されるだけでした。


県道から見上げた比高約20mの城址台地です。


城址の平坦な台地は果樹園になっています。北西の端に一族の末裔と伝わる石川家の墓地がありました。


西側にある土塁と空堀です。


緒川を見下ろす東側は、天然の要害の感があります。

那珂氏の城にしては規模が小さすぎるので、西側にも城郭が続いていたという説や、那珂氏のあとに佐竹一族の小田野氏が管理していたなどの説があるようですが、詳細は不明です。今後の新たな発見と解明を待ちたいと思います。


城址の南東に建つ鹿島神社は、那賀太郎藤原通資が鹿島大神を崇拝して延応元年(1239)に建立したと伝わります。その後那珂氏の氏神として祭祀され、室町時代の文明6年(1474)の棟札に記されている、一族の末裔石川主計助光尚とその子孫が社殿の管理をしていたとされます。佐竹氏の支配が続いた後、江戸時代にも村の鎮守として地域住民の信仰を集めました。(現地の案内板より)

元和6年(1620)に造られた本殿四方の彫刻は、日光東照宮の彫刻に携わった左甚五郎によるものと伝わっており、常陸大宮市文化財に指定されています。(現地の案内板より)

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