顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園開設180年と斉昭公の書

2022年07月25日 | 水戸の観光

梅で知られる偕楽園は,水戸藩9代藩主徳川斉昭公が天保13年(1842)に開設して今年で180年になります。前年に日本随一の規模を持つ藩校弘道館を建て藩士子弟の文武修練の場を創り、翌年に「一張一弛」の思想による休息の場の偕楽園を開き、一対の教育施設としてどちらにも梅の木を植樹しました。


たまたま昨年末に、斉昭公をはじめ歴代藩主の梅への思いを示す貴重な拓本が所蔵者より寄贈され、180年を記念して弘道館で展示されています。

正庁と至善堂を結ぶ10間の畳廊下の先に拓本が展示されています。


その拓本「先春梅記」とは……水戸藩6代藩主徳川治保公(斉昭の祖父)が、寛政3年(1791)正月に水戸藩重臣 岡崎朝能(ともよし)の屋敷で見事な梅花を観て詩を吟じました。それから37年後、その屋敷を拝領した児玉匡忠(まさただ)がこの事績を後世に伝えたいと、藩主就任前の斉昭公(当時の名は紀教(のりたか))に紀文を依頼した「先春梅記」を石碑に刻み、屋敷の梅樹のそばに建立しました。しかし石碑は大正7年(1918)の水戸の大火で梅樹とともに焼失して、この拓本だけが唯一残りました。


余談ですが、この6代藩主治保公の次男で美濃高須家を継いだ松平義和の孫に、高須4兄弟といわれる尾張徳川家14代慶勝、一橋徳川家10代茂栄、会津松平家9代容保、桑名松平久松家4代定敬の4人がいます。

幕末の激動期にそれぞれの数奇な運命をたどったことで知られており、明治11年撮影の有名な写真(海津市歴史民俗資料館蔵)が残っています。


なお「先春梅記」の拓本の隣には、斉昭公が水戸に梅を植えた経緯を記した「種梅記」の拓本が並んでいます。この石碑は弘道館公園の中に建っています。


これらの拓本の隷書体の文字は八分体ともいわれ、横長の文字の収筆の右払いが波のように跳ね上がる(波磔)など装飾的な要素を持ちますが、斉昭が好んで使った書体はさらにその特徴を強調しており、特に「水戸八分」ともよばれています。


弘道館設立の思想を述べた弘道館記の拓本は、正庁の正席の間に掲げてあり、その本文も同じ水戸八分の隷書体です。記碑は弘道館公園内の八卦堂に納められていますが、東日本大震災で破損し修復されても、とても拓本をとれる状態ではなくなりました。


至善堂の御座の間は、最後の将軍で斉昭公の第7子慶喜公が新政府に恭順の意を表して謹慎した部屋として来館者の人気スポットです。
床の間に掛けられた「要石歌碑」の拓本は、「行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家流」(行く末も 踏みなたがへそ あきつ島 大和の道ぞ 要なりける)という斉昭公の歌が、踊るような草書体で書かれています。この碑も弘道館公園内の大きな楠木の下に建っています。


同じ草書体ですが、「新井源八宛書状」(嘉永元年(1848))は、斉昭公が水戸で養育させていた子息たちの教育方針について教育係の新井源八に指示したものです。七郎麿(慶喜・15代将軍)、八郎麿(昭融・川越藩主)、余一麿(昭縄・木連川藩主)それぞれに細かい指示が書かれています。
(茨城県立歴史館企画展より)

筆まめだったといわれる斉昭公の書は数多く残っていますが、その抑揚のある独特の書体を見ると枠にはまらず幕末を駆け抜けた生涯を見るような気がします。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
リンクのお知らせ (榛原守一)
2023-02-04 17:19:26
この度、貴ブログ『顎鬚仙人残日録』の「偕楽園開設180年と斉昭公の書」というページに、小生のホームページ『小さな資料室』の「先春梅記」関係の5つのページからリンクを貼らせていただきましたので、お知らせいたします。
もし不都合な点がある場合は、お知らせくだされば直ちに訂正いたしますので申し添えます。
どうぞよろしくお願いいたします。
返信する
先春梅記 (顎髯仙人)
2023-02-05 09:00:00
ありがとうございます。
「小さな資料室」は何度か訪問させていただき、埋もれた貴重な資料に
付けられた的確な読み下し文を参考にさせていただいたことがあります。
こんな素晴らしいホームページにリンクしていただき光栄の至りです。
返信する

コメントを投稿