顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

日本三古碑…那須国造碑と考古学発祥の地 (大田原市)

2019年05月30日 | 歴史散歩
国宝に指定されている那須国造碑は、草むらに埋まり苔むしていたのを延宝4年(1677)奥州岩城の僧円順によって発見され、水戸領の武茂郷(馬頭村)梅ケ平の庄屋で学者でもあった大金久左衛門重貞へ伝えられたことからストーリーが始まります。

重貞が苔を落として判読し「那須記」として著し、天保3年(1683)馬頭を訪れた水戸領主徳川光圀公に献上します。貞享4年(1687)再度訪れた光圀公が儒臣佐々宗淳に命じて石摺をとらせて解釈したところ、その歴史的価値を知り元禄4年(1691)天領と旗本領が入り組んだ湯津上村代官と折衝して土地を買い上げ、そこに御堂を建て碑を御神体として祀りました。これが笠石神社の由来です。

碑文解析により古碑発見時の約1000年前の西暦700年、当時の那須国(郡)を治めていた那須直韋提(なすのあたいいで)の没後、その子、意斯麻呂(おしまろ)等が韋提の遺徳を偲んで建碑したものと判明します。
日本3古碑といわれるこの碑は花崗岩で笠石含んで148センチ、六朝楷書という書体がきれいに刻まれていますが、これは碑面が下向きで埋もれていたためだそうです。残念ながら撮影禁止のため湯津上資料館のレプリカを載せました。

光圀公はさらに古碑の主を解明するために、近くにあった大墳墓の上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査を佐々宗淳に命じました。しかし手がかりの墓誌銘は見つからなかったため、出土遺物は絵図をとらせ同じ場所に埋め戻し、松を植えて墳墓を保護させる史跡整備をしたと伝わります。これが日本最初の考古学的な発掘調査といわれる所以です。
なおこの古墳の築造は4世紀末頃で、国造碑の時代より300年以上前のこの地方の権力者のものとされています。



写真は下侍塚古墳です。全長84mの前方後方墳です。この周辺には大小の古墳群があり大きな勢力の存在が伺えますが、国内の他の古墳同様、詳細は不明です。

後方部墳頂には光圀公発掘時の痕跡の凹みが残っています。「出土遺物を松板の箱に入れ釘付けの上松脂で密閉し、人足、庄屋立会で墳丘に埋納。蓋には光圀、箱には佐々宗淳の一筆を封入」と伝わりますので、埋納した箱が腐って埋没したのかもしれません。

踏むに足るものに城趾の松落葉  後藤比奈夫
墳丘の主は語らず松落葉  顎髭仙人

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