顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水に浮かぶ亀…土浦城址(亀城公園)

2018年07月14日 | 歴史散歩

土浦城は、霞ヶ浦周辺の水を引き入れ幾重にも堀をめぐらした水城ともいうべき平城で、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたので亀城の別名があります。本丸、二の丸を中心に三の丸、外丸のほか武家屋敷や町屋を含み、北門、南門、西門を結ぶ堀で囲む総構えの規模を有していました。
現在の城址は本丸と二の丸の一部が亀城公園になっているだけで、広大な城域は市街地の中に埋もれてしまいましたが、一部土塁が残っているところもあるようです。
 
天慶年間(938~947)に平将門が砦を築いたという伝説はありますが、永享年間(1429~1441)に常陸守護、八田知家の後裔、小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初とされています。永正13年(1516)、若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城を奪われ、一時、信太範貞が城主を務めましたが、後に菅谷勝貞の居城となります。やがて上杉・佐竹勢に徐々に圧迫された小田氏治は、たびたび小田城から土浦城に逃げ、その後何度か小田城を奪回しますが永禄12年(1569)ついに小田城は陥落、小田氏治を匿い続けた菅谷範政も天正11年(1581)土浦城を佐竹氏に明け渡しました。

その後結城秀康、江戸時代には松平氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平氏が入封し、貞享4年(1687)土屋政直が再度6万5千石で入封すると、31年間幕府老中を務め三度の加増で9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新を迎えました。
城内の建物は廃城の際取り壊されたり火災で焼けたりして現存するのは、太鼓櫓、霞門、旧前川口門(高麗門)だけで、東櫓、西櫓は平成の復元です。

本丸の楼門を、明暦2年(1656)朽木稙綱が櫓門に改築したもので、2階の櫓に時を知らせる太鼓があったことから太鼓櫓とも呼ばれていました。江戸時代前期の櫓門としては関東地方唯一のものです。

東櫓は平成10年(1998)に復元され、土浦市立博物館の付属展示館として公開されており博物館の入場券で入館できます。木造の大きな梁や柱の迫力に圧倒されます。

西櫓は昭和24年(1949)のキティ台風の被害を受け、復元するという条件つきで解体されたものを、平成4年(1992)に保管されていた部材を用いて復元されました。

東側にある本丸裏門の霞門は、霞橋を渡って入ります。貞享元年(1684)松平信興の構築で門外側に桝形があります。左手に見える東櫓はこの門の守りの役目を果たしていたようです。

旧前川門は、文久2年(1862)年建築、搦手門に通ずる要所にありましたが、その後移築を重ね、二ノ門のあった現在地に建てられました。本柱の後ろの控柱にも切妻屋根を載せた高麗門型なので、高麗門ともいわれています。
なお明治新政府は太政官布告で櫓や門の取り壊しを命じましたが、新治県では一部払い下げも行われ、移築された門が近在に残っているそうです。

隣接する土浦市立博物館は、土屋氏関係の資料が展示されています。特に国宝1、重要文化財4、重要美術品6口を含む土屋家の刀剣83口(フリ・ク)を所蔵しており、入れ替えして並べられています。
主に2代藩主政直が所有していたもので、その中には将軍家から下賜されたものや他の大名家から贈られたものも多数あり、水戸中納言(光圀)隠居の際に水戸少将(綱條)より贈られた重要文化財の「恒次(つねつぐ)」(鎌倉時代初期)は、残念ながら展示サイクル外でした。

土屋家の九曜紋や三ツ石紋の入った行基(ほかい・食物などを入れて戸外に運ぶ容器)や蒔絵の箱など、大名の生活が偲ばれるものや古文書などもいろいろ展示されています。
展示品の撮影は、撮影禁止マークの付いてないものは可能ということなのでご紹介できました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿