顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館の百日紅…10月1日の血の色?

2023年10月01日 | 水戸の観光

弘道館の百日紅、そろそろ花期も終わりの9月24日の撮影です。
いつもこの時期にこの紅い花を見ると、155年前ここで流された血の色を見る思いがしてなりません。

百日紅は、「約100日間、紅い花を咲かせる」という名前の通り初夏から秋までの長い花期ですが、実際には一度咲いた枝先から再度花を咲かせるので咲き続けているように見えるのだそうです。
この時期には大きく生った実と花が一緒に付いています。

155年前の今日、慶応4年(明治元年1868)10月1日、水戸藩の藩内抗争である改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争った最後の戦いがここで行われ、両派合わせて約200人もの藩士の命が失われました。

弘道館は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が藩政改革の重要施策として水戸城三の丸に創立した藩校です。日本最大の規模を持ち総合大学的な教育内容は、藩士の子弟はもちろん、その建学精神である水戸学は吉田松陰をはじめ幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。

ただ、ここで机を並べて学んだ藩士たちも、たまたま所属した派の違いにより敵味方になって悲惨な殺し合いをした水戸藩の不幸な歴史が残されてしまいました。


「正庁」は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物で、城側の畳廊下の柱には当時の弾痕や刀傷が残ります。藩主が臨席して、学問の試験や対試場で行われた武術の試験を観覧した「正席の間」、床の間には弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が掲げられています。

畳廊下から見える百日紅、正席の間の内側長押にも銃痕が残っています。


正庁と畳廊下で結ばれた奥の建物「至善堂」は藩主の休息所と子息たちの勉学所です。斉昭の七男で最後の将軍となった徳川慶喜公(七郎磨)も5歳の時からここで学びました。

大政奉還後の慶応4年(明治元年)4月、慶喜公はこの至善堂に籠もり静岡に移るまでの約4か月間、厳しい謹慎生活を送りました。藩内での争いを収めるべく謹慎中のため陰ながら動いてはいたようですが、静岡に移った約2か月後にはこの弘道館で戦いが起こってしまいました。


安政の大地震では斉昭公の重鎮で「水戸の両田」といわれた藤田東湖や戸田忠敬が圧死し、その5年後には斉昭公も永蟄居の水戸城で亡くなると、藩の重しを失った藩内の両派は抗争に明け暮れ、記録にあるだけでも改革派(天狗党)約1800人、保守派(諸生党)約550人の犠牲者があったといわれています。


さて10月1日に弘道館を占拠した保守派は、一時は藩政を牛耳って改革派を弾圧してきましたが、幕府崩壊に伴い水戸を脱出し会津戦争に加わるも会津城は陥落、行き場所を失って水戸城を奪取しようとするも翌日には千葉方面に逃走しそこで壊滅、首領の市川三左衛門は逆さ磔の刑に処せられました。


この戦いで弘道館の殆どの教育施設は消失し、残った建物も昭和20年の大空襲で燃えてしまいますが、正門、正庁及び至善堂が二度の戦火を奇跡的に免れ、国の重要文化財としてその歴史を伝えています。

畳廊百日紅に突きあたる  高澤良一
百日紅地に燃屑のごとき花  福永耕二
烈日の土の息吹や百日紅  小坂かしを
百日紅死に場所もとめ鬨の声  顎鬚仙人

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