顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

徳川頼房…水戸藩初代藩主の軌跡

2021年11月22日 | 水戸の観光

ここ2年間コロナの影響で休館が多かった水戸市立博物館で、水戸藩の基礎をつくった初代藩主頼房の生涯をゆかりの品々でたどる企画展が開かれました。(11月21日まで)

徳川家康の11男頼房は慶長8年(1603)伏見城にて生まれました。家康60歳の時の末っ子です。当時家康は、常陸の国水戸の佐竹氏の出羽国への減転封など関ヶ原の戦後処理も終わり、朝廷より征夷大将軍に任命され伏見城で政務を執っていました。

末っ子として家康の膝の上で可愛がられていた頼房は、慶長11年(1606)3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで慶長14年(1609)、兄の頼宣の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領しましたが、幼少のため駿府城の家康の許で育てられました。
写真は家康着用の遺品として、頼房が水戸東照宮に奉納した具足です。家康死後に子供たちに分けられた「駿府御分物」は頼房にも多く与えられました。

頼房の初めての水戸就藩は、元和5年(1619)17歳のときで、寛永2年(1625)から寛政7年(1630)までは、ほぼ毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下の整備を行いました。その後叔父、甥の関係ながら1歳年下の3代将軍家光に兄弟同様と信頼されて江戸在府が多くなり、これが「副将軍」の論拠になったともいわれます。
写真は家康着用の「石帯」(公家の正装である束帯装束を身に着けるときの黒皮製の帯)と「錦貼り提げ鞄」です。

将軍就任前後の徳川家光に宛てた元和9年(1623)の頼房の書状です。年が一つしか違わない二人は親密に交際していたと伝わります。

水戸に就藩中の頼房が、家光側近の柳生宗炬に宛てた書状です。家光の様子を伺うとともに、領内の鷹狩りで獲れた雁を宗炬に贈っています。

寛永8年(1631)頼房から家康の側近だった金地院崇伝に出された書状です。体調を崩していた2代将軍秀忠の病状を気遣っていますが、翌年1月に24も年の離れたこの兄は亡くなります。

寛文元年(1661)光圀の書状です。就藩中の父頼房が流行り病に罹り、その病状を心配して同行している家老の中山信治宛に送りました。

興味を引いたのは佐竹義宜に宛てた頼房の寛永5年(1638)の書状です。関ケ原戦後家康によって水戸城から出羽秋田に移封された佐竹義宜との交流もあったことが分かる内容で、たびたび腫物に悩まされている義宜を気遣っています。

慶長5年(1600)、上杉討伐に向かっていた家康が小山で石田三成の挙兵を聞き引き返す時に、佐竹義重の次男で蘆名氏を継いだ義広に出した書状です。佐竹氏の中でも家康と連絡をとっていたものがいたことが分かりました。

水戸藩家老の鈴木石見守家伝来の古文書で、永禄10年(1567)今川家当主の氏真が鈴木重時の軍功を褒めたものですが、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ後を継いだ氏真の代には衰退の一途をたどり、重時もやがて今川家を離反し井伊谷三人衆の一人として家康に従います。その子重好は徳川秀忠の命で水戸藩付きとなり、代々石見守を名乗り5000石で家老を勤めました。

文禄3年(1594)1回目の朝鮮出兵から京に戻った伊達政宗が国元に送った書状です。家臣たちのことを気にかけており、また政宗の許に身を寄せていた常陸額田城主小野崎昭通の堪忍分(隠居料)のことも書かれています。

歴史上に名の知れた先人の筆跡を眺めていると、その息遣いまで感じられるような気がしました。最近は撮影不可の展示物以外は写真が撮れるので、歴史を語る展示を紹介できるようになったのは嬉しい限りです。
写真は水戸城二の丸の柵町坂下門前に建つ頼房公の銅像(製作/篠原洋)です。

さらに会期中の11月14日には、頼房公が創建した水戸東照宮の江戸時代から伝わる御祭禮が100年ぶりに行われ、あらためて400年前に思いを巡らすことができました。

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