顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

勘十郎堀 ② 紅葉運河

2018年05月24日 | 歴史散歩
水戸藩は藩政改革のため宝永3年(1707)から他藩の改革に実績のあった松波勘十郎を起用し、当時の江戸に至る物資輸送ルートの運河を掘削した勘十郎堀は、「紅葉運河」と「大貫運河」の2つの大工事でした。

当時東北からの物資集積地の那珂湊から江戸へのルートは、リスクの高い鹿島灘を避け那珂川から涸沼を経て北浦、利根川、関宿から江戸への内陸舟運ルートが一般的でした。
しかし涸沼の海老澤や安掛河岸から北浦に注ぐ巴川までの区間は、舟から積み替えて陸送になるため、ここに運河を掘りその航路を利用する舟から通行税を取り立てて藩財政の立て直しにあてようとしたのです。

しかしこの運河掘削区間約10キロは、大地を人力で掘り下げる大工事で農民たちを苦しめ、日雇い銭も支払われず、宝永5年(1708)12月、領民代表が江戸におしかけるほどの農民一揆を引き起こし、松波勘十郎は水戸藩から追放され、財政改革は中止されました。
哀れにも、のちに捕えられて投獄され,同じく水戸藩に抱えられていた二人の息子ともに翌7年11月に水戸赤沼の獄で死んだそうです。

茨城町城ノ内の堀跡
ざっと見ても10m以上あるような深さです。場所を訪ねた農家の人は、底がすぼまった籠で農民たちが土を運んだという言い伝えを話してくれました。

鉾田市紅葉地区の勘十郎堀跡
水戸藩では宝暦5年(1755)に工事を再開します。行方郡富田村(いまの行方市)の羽生惣衛門が水戸藩より勧農役に任じられ、工事を行いましたが巴川との水位差が余りにも大きく断念しました。

この辺に河岸があったとされる鉾田市紅葉の巴川、小さな川ですが勢いよく北浦に流れています。小舟で運び、北浦からはおおきな高瀬舟に積み替えたようです。
ところで川舟の上りは、もっぱら人力で、岸を動きながら綱で上流に引き上げたというから、その労力は大変なものでした。

近くに小宮山楓軒先生頌徳碑が紅葉の木のもとに建っています。
立原翠軒に学び彰考館で大日本史の編纂に尽力、寛政11年(1799)水戸藩南郡の紅葉郡奉行に抜擢されここに陣屋を置き、21年もの間勧農殖産政策を進め、荒廃していた農村の復興に成果をあげ領民にも慕われたそうです。

紅葉地区の神社、鹿島神社もありました。祭神は武甕槌命、元禄年間(1688~1704)水戸藩主光圀公命により紅葉の鎮守となると説明板にありました。
ところで、鹿島神宮を総本社とする鹿島神社は、東北、関東を中心に全国で600社以上、茨城県では約1770の神社の中で約228社が鹿島神社です。

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