顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

吉田松陰…水戸藩士との友情

2021年12月19日 | 水戸の観光

幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰は東北遊学の途中、嘉永4年(1851)12月19日水戸に寄り、翌年1月20日まで水戸藩士永井政介宅に滞在しました。今回滞在先の永井家のご子孫から松陰自筆の漢詩が弘道館に寄託されたのを受け、松陰が水戸に到着した日に合わせて関係資料とともに公開されました。


弘道館は9代藩主の斉昭公が開設した水戸藩の藩校で、ここでの学問は「水戸学」といわれ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。幾度かの戦火を奇跡的に免れた当時の建物が残っており、国の重要文化財に指定されています。


約1か月の滞在中に当時22歳の松陰は政介の長男で19歳の芳之介と意気投合し、芳之介の案内で偕楽園や瑞龍山、鹿島神宮などを訪問しました。永井家のご子孫から今回寄託されたのは、「有憶長井順正」(長井順正に憶(おもい)あり)と題した漢詩で、黒船の記述があるので嘉永6年のペリー来航以降に松陰が芳之介(長井順正)に贈ったものとみられ、乱れた幕末の世の中でも志を持って生きていこうと記されています。
松陰は、嘉永7年(1854)ペルーの再航時に密航を企てて伝馬町牢屋敷に投獄、その後萩で幽囚されていたので、獄中での作ともいわれています。自分の名前を「長門の国の奴」と名乗り卑下している様子も見えます。


もう一つの漢詩は、松陰が永井家を辞して東北遊学に出発する際に、芳之介から贈られた詩に返した惜別の漢詩で、昭和54年に寄託されました。「四海皆兄弟(けいてい)」(同じ志をもつ世界の人々はみな兄弟同胞)で始まる詩は、同志としての絆を誓い合った内容になっています。


松陰はまた水戸藩の学者で当時弘道館教授頭取であった会沢正志斎が著した「新論」に感銘を受け、滞在中に会沢正志斎宅を7回(1回は不在)も訪問し、そのたびに供された酒を酌み合いながら学説を拝聴しました。「新論」の説く尊王攘夷思想は幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新への思想的背景となったともいわれています。


水戸藩でも剣士として知られた永井政介は、神道無念流の岡田十松の門下生であり、交流のあった斎藤弥九郎の練兵館では松陰の門下生である木戸孝允(桂小五郎)が塾頭を務めていました。
特別公開には、水戸での滞在先として松陰に永井家を紹介した斎藤弥九郎(初代と2代目)が連名で、永井政介に宛てた暑中見舞いなどの書簡も展示されていました。


斉昭公の側近の藤田東湖も岡田十松の開いた撃剣館に通って一級の実力を持っていたといわれ、弘道館の武館にあった道場訓「神道無念流壁書」を揮毫しています。上段に版木、中段に巻物になった拓本、下段に読み下し文が展示されました。


松陰の東北遊学は藩の許可を待たずに脱藩しての行動だったので、藩校弘道館には立ち寄ることはできなかったようです。


弘道館の正庁の前庭に早咲きの梅(八重冬至)が数輪咲いていました。

この後、吉田松陰は安政6年(1859)10月27日、伝馬町牢屋敷にて死罪になります。享年30歳
永井芳之介も元治甲子の変(天狗の乱)で捕縛され、古賀藩預けとなり元治元年(1864)10月16日に刑死しています。享年31歳
国を憂い改革の気概に燃えた二つの若い命は、明治維新を待たずに散ってしまいました。

水戸藩でも幕末の藩内抗争などで1800人以上の命が失われ、この弘道館も明治元年10月1日(1868)にその激戦の舞台にもなり、日本一の規模を持った藩校も正庁と正門以外はすべて焼失してしまいました。