太平洋の荒波に侵食されできた大小5つの入江が連なるこの海岸は、東京美術学校校長を務めた岡倉天心が日本美術院を移し、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山らが家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史の輝かしい1ページを残した地として知られています。
県内のコロナ感染者がゼロの日が続く秋の日、兄弟男4人の初めての集いで天心遺跡の北側の崖上に建つホテルに泊まりました。県独自の旅行キャンペーンもあり、宿泊者も多くみられましたが、浴室以外はすべてマスク姿ばかり、現在の感染者減の要因のひとつをしっかりと示していました。
泊った部屋は左側の棟の2階、眼の下が海という絶好のロケーションでした。
さて上記写真の天心遺跡は、大正2年(1913)天心没後は遺族の住まいでしたが、昭和17年(1942)天心偉績顕彰会が遺族から管理を引き継ぎ、現在は昭和30年(1955)同会会長の横山大観から天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈を受けた茨城大学五浦美術文化研究所の管理になっています。
長屋門を入ると、天心記念館があります。平櫛田中作の天心像や天心の釣人像などゆかりの品々が展示されています。
海に突き出した岩の上に建つ六角堂は、平成23年(2011)東日本大震災の津波で台石だけを残して流失、茨城大学中心の修復事業により創建当時の姿に再建されています。
六角堂を天心は「観瀾亭」と名付けました。瀾とは大波のこと、天心は、ここで波を眺めながら瞑想にふけり、時には海に釣り糸を垂らしたと伝わります。
六角の東屋は中国の杜甫の草堂に倣い、朱塗りと屋根の宝珠がインド仏教を表し、室内の日本風の茶室イメージと…、わずか7.7㎡ですが日本美術の源流である日中印の文化を一つの建物として表現しているそうです。
当時の天心邸は、風呂棟、客用離れ屋敷、夫妻の居室が取り壊されて、当時の半分の規模で残っています。東日本大震災では崖上の邸も床上まで浸水し被害を受けたそうです。
前庭は外国生活が長かった天心がボストンから持ち帰った種子を播いた、当時は珍しい洋風の芝生でした。
昭和17年(1942)天心偉績顕彰会が遺族から管理を引き継いだのを記念して、横山大観が揮毫した「亜細亜は一なり Asia is one」の石碑です。思想家としての天心の著書「東洋の思想」はこの一文から始まり、「日本の覚醒」「茶の本」という英文での三部作は海外から高い評価を受けました。
映画「天心」の撮影に使われた日本美術研究所のロケセットが崖の上に残っています。2013年に公開され、岡倉天心役は竹中直人、横山大観は中村獅童でした。
室内では、横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山らが制作に励んでいる様子がセットにされています。
大正2年(1913)に50歳で亡くなった天心は東京の染井霊園に埋葬されますが、同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を遺跡向かい側の山腹に造り分骨されました。
ホテルの部屋の真下は六角堂のある岩礁です。朝6時前の撮影…遠くに漁火が見えました。
この時期一帯はツバキの花がいたるところで眼に付きました。