
水戸城は、鎌倉初期に常陸平氏の馬場氏が城館を構え、その後江戸氏、佐竹氏、徳川氏と城主が変わる度に城として拡充され、明治を迎えるまで約680年の歴史があります。しかし明治以降多くの建造物が解体や消失によって失われ、現在残るのは土塁や空堀などのほか、建造物では本丸の薬医門だけになっています。

いま水戸市では歴史あるこの水戸城址の風情を市民や観光客に味わっていただくため、歴史まちづくり事業として二の丸の整備を進めています。

昨年復元された大手門から二の丸南西端の隅櫓まで、総延長450mの土塀が現われました。二の丸西側の堀の土塁に建てられ棟高1.8m、大壁漆喰仕上げで下部板張り、屋根は瓦葺です。(写真右側土塁の上が土塀です)

二の丸南西に建てられた隅櫓も古写真や絵図を参考に在来工法により施工され、足場も撤去されました。
木造2階建て、建築面積 95.84㎡ 、延床面積 95.02㎡ 、外壁は土壁の上漆喰塗り、軒高7.015m、 屋根 入母屋造,本瓦葺(土瓦)、棟高10.016m 、なお、隅櫓内部には水戸城に関するいろんな資料の展示施設が計画されています。

いろんな角度から撮ってみました。水戸駅北口ペデストリアンデッキからも見えますので、水戸城跡の存在を気付かせるランドマークになると思います。

三の丸のビルの隙間からも撮ってみました。

さて、三の丸にある藩校弘道館では、10月1~2日に藤田東湖の書「麗澤」が展示されました。

実は安政2年(1855)10月2日は安政大地震の日で、水戸藩の改革派のリーダーで9代藩主斉昭公の側近だった藤田東湖が水戸藩上屋敷で圧死した日です。

その前日の10月1日、東湖は親交の深かった幕府儒官も勤めた芳野金陵の家に招かれ、酒を酌み交わしながら懇談、互いに書を贈り合いました。その時東湖の贈った書「麗澤」が金陵の子孫から寄贈され、毎年この日に一般公開されています。
「麗澤」とは、「二つの沼沢が互いに潤し合うように友人が互いに助け合いながら学ぶこと」という意味だそうです。

地震で屋外に逃げた東湖ですが、大事なものを取りに戻った母親を助けに入り自分は梁の下敷きになってしまいます。享年50歳。斉昭公の腹心だった戸田忠敞も同じ藩邸で圧死、藩政を抑える重要な人物二人を失った水戸藩には、この後凄まじい藩内抗争の嵐が吹き荒れることになります。
小石川の水戸藩上屋敷の図も展示されていました。右下のピンク色矢印が東湖の住んでいた藩邸です。水戸藩上屋敷は今の小石川後楽園一帯で、101,831坪の広大な面積でした。