城里町下古内にある太古山獅子院清音寺は、案内板に書かれた由来によると「大同4年(809)に弘法大師が草庵を設けたのが始まりとされ、承和4年(837)真雅僧正が浄光寺と号し、仁明天皇より東夷鎮護山の勅願を賜り、その後、源頼義、実朝が厚く崇敬したが、嘉禎3年(1237)兵火罹災した。
文和元年(1352)に佐竹氏9代義篤が父の貞義の追善の為に名僧、復庵大光禅師を招き開山とし、大伽藍を建立して臨済宗に改め、独立本山として現在の山号、寺号となり、関東屈指の臨済宗の林下修業道場となった。天正8年(1580)再び兵火にあい、また佐竹氏の秋田移封の後衰えた。
元禄の初め水戸光圀公が当山の禅境を愛し、徹伝、大忠両禅師と詩友として再度来山され名吟等を残し加護され、公の上申にて京都五山の上、南禅寺派に属した。
図らずも明治維新の廃仏希釈により寺領石高を失い、寺宝、建物なども四散した…」とあります。
佐竹氏の菩提寺だったので「五本骨扇に月丸」紋が掲げられています。
開山堂西側の墓地には、三基の宝篋印塔があり、手前から佐竹氏9代貞義、清音寺開山の復庵大光禅師、10代義篤の墓になります。凝灰岩で作られ中央の塔が1.4m、立方の型や下台の蓮華五弁の深彫り形式から南北朝時代の建立とされます。
鎌倉時代の1237年と戦国時代1580年に兵火で2回、1940年(昭和15年)に火災で伽藍等の焼失と、廃仏毀釈で寺の規模は縮小されていますが、中世から関東屈指の臨済宗の寺だったことを感じられる落ち着いた山の中のお寺です。
茨城県歴史館のホームページに「アメリカに渡った清音寺の仏像と山門」という研究資料の目録が出ています。フィラデルフィア美術館に収蔵されているそうですが詳細は分かりません。しかし現在の山門の奥に、大きな山門の礎石だけが残っています。
また、浜松市にある臨済宗の名刹、方広寺の本尊の釈迦三尊像は観応3年(1352)の作で国の重要文化財、方広寺のホームページには、「もともと茨城県城里町の清音寺(南禅寺派)の仏殿に祀られていましたが、元禄3年に徳川光圀公参拝の砌(みぎり)、損傷甚だしきを憂い 修復された旨が、光背裏に銘記されています。明治後期に特に懇請して当山の御本尊としてお迎えしました」と出ています。
さて、古来よりこの地は古内茶で知られており、その起源は古く,室町時代初期に栽培が始まったといわれます。江戸時代,水戸光圀公が来山の折、清音寺に産するお茶を献上したところ,味のよさに感嘆し「初音」と命名し、以後 古内地区一帯でお茶が広く栽培されるようになったと伝えられています。
「初音」の母木は今でも寺の境内に残っていて、この母木から挿し穂約1000本を採り育苗したお茶の木で今年約5キロの収穫があり、その試飲会が6月に行われたとのニュースが出ていました。
幾多の災難や仏像や山門を手放した経緯は分かりませんが、約350年を経てお茶の香りが蘇った明るいニュースでした。
紫陽花が数多く咲いていて、深山に囲まれた境内では一層引き立って見えました。