顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

宇留野城址…佐竹系の連郭式城郭

2020年07月01日 | 歴史散歩

常陸大宮市の市街地が東側の久慈川低地に張り出した比高約25mの台地先端に、佐竹系城郭に多い連郭式平山城の3つの郭が総延長300mの規模で並んでいます。

築城時期などは明らかではありませんが、平安時代中期の天慶年代(938~956)にこの地の宇留野五郎時貞が平貞盛から所領を与えられ築城したともいわれます。

その後佐竹一族の城となり、享禄2年(1529)佐竹氏15代義舜の次男義元が宇留野城主義久の後嗣になりますが、約1.6Km北隣にある佐竹宗家宿老の小貫氏の部垂城を攻め落としてしまいます。(弊ブログ2020.1.7部垂城址)
このため佐竹宗家の兄義篤との12年にわたる部垂の乱が始まりますが、結局天文9年(1540)義元一族は攻め落とされ滅びてしまいます。しかし宇留野氏の一部は義篤側に味方したため、佐竹氏の一族として残存し、慶長7年(1602)佐竹氏の移封では宇留野氏も随従したため廃城となりました。 
                                   
御城と呼ばれるⅠ郭は約25m四方の狭い一画、宇留野氏の氏神である日向神社があり、今でも地元の氏神として崇拝されています。また佐竹氏の秋田移封に随行した宇留野氏が、いつかの復帰を祈願して奉納したと伝わる軍扇2本が残っているそうです。

Ⅰ郭(御城)の北側Ⅱ郭側には高さ約1mの土塁が巡り、幅約5mの空堀が巡っています。

Ⅱ郭とⅢ郭の間には埋まってはいますが、明瞭な薬研堀らしき堀と土塁が見られます。

主郭部分の西側には深さ約20mの浸食谷を挟んで4つの郭があり、平時の居住地として南側に拡げていったと思われます。この南北約500m、東西約100mの広大な一画は開発されて宅地と農地になってはいますが、一部土塁が残っています。

Ⅲ郭より西に伸びた深い大堀は幅20m、長さ300mもあり、ただ構造上途中で工事が止まっているように推定されるのは、宇留野氏滅亡の時期に重なるのではという説もあります。
市街地の城にしては、堀や土塁が残る中世の城址です。しばし空想の世界に遊ぶことができました。