顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

薬王院…水戸領主代々の祈祷寺

2020年07月21日 | 歴史散歩
平安初期に桓武天皇の勅願寺として建立されたと伝わる薬王院は、常陸三の宮の吉田社の神宮寺として、この地方を治めた常陸大掾氏との密接な関係のもと帰依と保護を受けてきました。
応永29年(1422)に大掾氏を府中に追いやり新たな領主となった江戸氏の時代もその保護を受け、その頃神宮寺から吉田山薬王院と変えていったといわれます。大永7年(1527)焼失した本堂も、享禄2年(1529)江戸氏によって再建されました。

天正18年(1590)には秀吉より常陸国の知行を安堵された佐竹氏が水戸城を奪取し、新しい外護者になり一時真言宗一乗院と変わりますが、佐竹氏の秋田移封の後、再び天台宗に戻りました。

その後は代々の水戸藩主が深く帰依し、特に光圀公は、妻泰姫(法光院殿)の菩提所とし、本尊薬師如来や本堂の大修復も行い、天台宗檀林所として関東八檀林の一つにもなりました。


本堂は享禄2年(1529)に江戸氏により再建されたもので、貞享3年(1686)に光圀公が大修理した芽葺型銅版葺入母屋造で室町時代の建築手法を現代に伝えており、国指定の重要文化財です。


四脚門は本瓦葺きの切妻造で中央の頭貫上の蟇股、木鼻に彫られた渦の形などの特徴から江戸時代中期の建造とされます。

仁王門は、芽葺きの八脚門で、桁行6.8m、梁間約6.4m、貞享年間(1684~1688)に建立されたものと思われます。 正面に連子窓を設け、その中に仁王像(木造金剛力士像)が安置されています。

室町時代前半作と伝わる金剛力士像が左右で睨みを利かしています。連子窓の間から撮っても迫力が充分伝わります。

回向堂、書院、客殿などの一画…、法要などの際に使用しています。

水戸藩2代藩主光圀公の兄にあたる亀千代丸の五輪塔です。初代藩主頼房公の二男、4歳で早逝し遺骨はのちに光圀公によって常陸太田の瑞竜山に改葬されましたが、五輪塔は土中に埋められ、昭和46年の境内改修の際に発見されました。存命ならば2代藩主に?…歴史は変わっていたかもしれません。

ここの墓地には、水戸藩家老の鈴木石見守の墓があります。井伊谷三人衆の一人で井伊直政に仕え、その後徳川秀忠の命で水戸藩付きになり代々家老をつとめた名家ですが、幕末の藩内抗争では当主の鈴木重棟が諸生党の領袖に祭り上げられていたため、維新後幼少の息子二人もろとも斬罪に処されました。
背中合わせの墓域は分家の鈴木重義(縫殿)で、諸生党追討の隊長というのも幕末水戸藩の悲劇の縮図を見るようです。

水戸を領した大掾氏、江戸氏、佐竹氏、徳川氏歴代の外護を受け、1200年以上の歴史をもつ境内は、街中と思えないほど静寂に包まれた空間でした。