小美玉市にある、耳、手、痣(あざ)がそれぞれ直るという珍しい三つの寺社が、6Kmくらいの間にほぼ一直線に並んでいるのを地図で発見、ひと廻り約1時間の探訪をしてきました。
耳が聞こえるようになる…耳守神社 (小美玉市栗又四ケ)
碑文によると、桓武平氏の常陸大掾平国香の庶流でこの地の領主飯塚兼忠の娘千代姫は、幼少の頃から耳が不自由なれども両親の断食祈願の甲斐あって熊野権現の神徳を得て人一倍聞こえる様になり、館の耳千代様と親まれその聴力には人々も只々感歎するばかりであった。
三十三厄年に不幸にも病に罹り病状は日毎に悪化し、自ら不治を悟り「我亡き後に一社を祀り給われかし、耳の病を守護せん」という言葉を残し世を去った。遺言通り両親は栗俣上郷の地に社を設け耳守と号し神事を行い飯塚家代々之を継承した。
約500年後の天正18年(1590)、大掾24代の清幹は佐竹義宣の大軍に敗れ府中城に滅亡し、同族の飯塚家も田木谷砦に滅び、耳守の祭礼も跡絶するが地元民により復活、神事が守り続けられた、とあります。
耳がよく通るように…と、竹筒の両端に紐を通した絵馬は、全国的に見ても非常に珍しく、今でも県内外から参拝者や見学客が訪れるそうです。なお、お札が拝殿前に置いてありましたので、お賽銭をいれていただいてきました。
手の病が治る…手接神社 (小美玉市与沢)
寛正6年(1465)頃、芹沢村領主・芹沢隠岐守俊幹が梶無川を通りかかった際、乗っていた馬の尾をカッパにつかまれるも、刀でその手を切り落として難を逃れた。手首のないカッパは屋敷にやってきて「七郎河童」と名乗り、「老いた母を養うため手を返してほしい」と泣いて懇願。母を思う気持ちに心打たれ手を返すと喜んだ河童は不思議な薬で手を元に接いでしまったと言います。お礼に河童の先祖から伝わる手接の秘法や、巻いておくと痛みに効く糸「きりすね」などを置いていき、また毎日魚2匹を届けてくれました。
ある日魚が届かず、不思議に思ったお殿様が川へ行くと、河童が魚を持ったまま死んでいたのを見つけ、ふびんに思った俊幹は梶無川のほとりに小さなほこらを建て「手接大明神」として祭った…と伝わります。
いつしか「手の病が治る」と参拝客が訪れるようになり、今でも多くの方が県内外から訪れています。
拝殿前に、お札と「きりすね」が入った箱が置いてありました。
新選組初代組長芹沢鴨はこの芹沢家の子孫といわれていますが、芹沢鴨の出自には諸説があって確かではないようです。
平成11年(1999)には氏子の手によって、境内に河童碑が完成、日本で唯一、河童を祀るとされますが、祭神は水の神、罔象女命(ミズハノメノミコト)、大巳貴命(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)となっています。
なお、千葉県旭市にも「手接神社」があり、同じ祭神を祀っているそうです。
痣や皮膚の病が良くなる…赤身地蔵尊 (小美玉市小川)
言い伝えによると、小河城主の側室に産まれた子どもの体に赤あざができ、日を追うにつれ広がっていったが、城主が、当時城内に安置されていたこの地蔵尊に願を掛けたところ、子どもから赤あざが消え、代わりに地蔵尊の身に移ったという話が残されています。
以来、痣や皮膚の病に御利益があるとされ、毎月、旧暦の24日に御開帳されているそうです。
この地蔵尊は高さ46cmの檜造りで、聖徳太子の作と伝えられていますが、実際は江戸時代の作と推定されるそうです。
中世の小川城は300mくらい西の高台にあり、宝徳2年(1450)城主の園部氏の守り本尊として地蔵尊は城内に勧請されましたが、天正18年(1590)佐竹氏に攻められ落城の際には、兵火を逃れ鶴巻の地に脱出、その後数回の移転を経てこの地に建てられたと碑文に書かれています。
遠くに筑波山を望むこの高台も城を守る拠点になったような立地です。