顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

戸村城…新旧二つの城が接合

2020年06月09日 | 歴史散歩

戸村城は那珂川東側の比高15mほどの河岸段丘上にあり、対岸には那珂西城址があります。

(城址の案内板がD地点に建っています。)

まず12世紀、永暦元年(1160)藤原秀郷流の那珂氏3代通兼の子で戸村能通がここに居城し戸村氏を称したといわれます。建武3年(1336)、6代の戸村又五郎は宗家那珂通辰とともに南朝方として、常陸瓜連城の楠木正家に従い活動しましたが、北朝側の佐竹氏に敗北し那珂氏一族とともに自刃して戸村氏は滅亡しました。この那珂氏系の戸村氏は南城を本丸としたとされます。
(A地点から見た戸村城址、右手が文殊院、左が城址で、間には堀のような低地があります。)

その後15世紀、佐竹氏12代佐竹義人(義憲)の3男義倭(よしやす)が、寛正元年(1460)ここを修築して居城とし、戸村氏を称して佐竹氏の南方を代々守り、慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ転封なるとそれに従い、寛文12年(1672)からは横手城代として佐竹氏の重臣をつとめました。この佐竹氏系の戸村氏の築城には、城域を拡張して北城を本丸にしたようです。
(B地点、左は南城の土塁のようです。)

城址主郭部は東西400m、南北300m、外郭を含めると東西最大450m、南北700mで、その主郭部は南側にあり、その東側と北側の外郭部には、家臣の住居や城下町があったと推定されますが廃城以来400年、農地、宅地化が進み土塁や堀の一部がわずかに残るだけです。(C地点から河岸段丘の城跡を望む)

畔に咲いているのはナヨクサフジ(弱草藤)、飼料や緑肥として渡来し野生化していますが、なよなよしているどころかとても元気に繁殖しています。

南側にある文殊院は、応永21年(1414)に城里町の小松寺再興の宥尊の弟子、尊許の開山と伝わります。佐竹氏の祈願寺として崇敬されてきた真言宗の寺院で、戸村観音の名でも知られています。

弘法大師の像が建っている本堂の大棟には「五本骨扇に月丸」の佐竹氏の紋が付いています。

ここも出城的な城郭の一部ともいわれています。土塁と堀…、水路は後世に作られたそうですが…

北側に位置する曹洞宗の龍昌院は戸村氏の菩提寺でしたが、佐竹氏の秋田移封に伴い戸村氏も随行したため、龍昌院も移転して現在横手市に400年の歴史を持つ寺院として建っています。
常陸に残った龍昌院は、寛永12年(1635)に本堂を焼失し、延宝4年(1676)に檜山左衛門を中興開祖として再建されました。

佐竹氏は定紋の「扇に月」のほかに、「源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線」の七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としているので、「佐竹桐」と「笹竜胆」らしき家紋が大棟の左右に付いていました。

春には境内の数本の枝垂れ桜が咲き、花見の名所になります。本堂前の枝垂れ桜に実が付いていました。