先週、久しぶりに博士論文アドバイザーにメールを送る。
彼女とは、博士論文をもとに一緒に論文を幾つか書いているのだが、この2作目の論文、2年以上前に取り掛かったのにも関わらず、彼女の多忙さゆえに、前に進まない。
去年の10月に、「1月になったら論文を読んで、フィードバックを送るわね。忙しくてごめんなさい」といった内容のメールをもらったきりで音沙汰なし。去年の秋に自分の母親を東海岸から引き取って地元の老人の施設に入れることになり、その引越しや身の回りの世話で忙殺されているらしい。
ところが今回久しぶりにもらったメールの中で、「実はあなたと書いた論文が大学の記事になることになってね。先週インタビューを受けたの。記事のドラフトを送るからあなたも目を通してみて」とのこと。
この論文は博士論文をもとに書いたものだが、キャンパスの記事を読むと、博士論文のことはなにも書いてなく、いかにも彼女の論文のような書き方だったのでちょっとショックを受ける。博士論文のことを含めて幾つか訂正を入れてもらうように修正原稿を送るが、複雑な気持ち。しかし、こういう些細なことで関係がこじれてしまうのも良くないので、忘れることにする。
私が修正原稿を送付した次の日、オンラインで大学の記事として掲載。テーマに関心をもってくれた人が多かったのか、その数日中に、次々にサイエンス、医療、子育て関係のウェブサイト、Twitterなどに記事が転送されて紹介されたのは嬉しい。フェイスブックのお気に入りでクリックしてくれた人も沢山いたので、励まされる。
同じようなことを、前にも一度経験する。大学院時代、Research Practicumという授業で、アドバイザーの指導のもと研究プロジェクトを行ったが、「あなたが第一著者よ」という最初の言葉がいつの間にか忘れられて、研究論文を投稿した時には第三著者にまで下がってしまう。しかしアドバイザーの実力で分野の中ではトップジャーナルに掲載することができたので、こういうこともあるのだと自分を納得させる。
木を見ずに森を見て、仕事をすべしということなのだろうか。