そんななか、時代はいよいよ明末の動乱時代に突入した。
皇城相府が現在のような要塞都市の様相を呈するようになったのは、この時代のことである。
時代は明の最後の年号である崇禎年間。
主役は陳廷敬の父の代、陳昌言(陳廷敬の叔父)と陳昌期(陳廷敬の父)兄弟である。
前述の陳修の代からは、陳三楽、陳経済……と三世代下った時代に当たる。
陳経済の長男陳昌言はその後、崇禎七(一六三四)年の科挙に及第して進士となり、
直隷楽亭知県、監察御史、巡按山東、提督江南学政等の重要官職を歴任することになるが、
それはこの農民軍の襲撃が終わり、一段落した後のことである。
皇城相府、正門。この頑丈な鉄鋲のでかさをご覧あれ。飾りではなく、実戦のやる気マンマンのものものしさじゃ。
明の崇禎五(一六三二)年、明末の動乱が始まり、王嘉胤の農民蜂起軍が陽城に迫った。
王嘉胤は元々辺境の守兵だったが、逃亡して故郷の陕西省府谷県に潜伏していた人物である(逃亡兵はお尋ね者)。
明代の辺境守兵が如何に過酷な状態にあり、如何に逃亡兵が多かったかは、過去記事を参考にされたし。
楡林古城・明とモンゴルの攻防戦9、明代の戸籍制度
楡林古城・明とモンゴルの攻防戦10、守城と屯田
『水滸伝』など無法者たちの正義を訴える物語は、宋代という設定ではあるものの、実際には明代に書かれている。
それが当時の社会で軍戸から逃亡してお尋ね者になり、表社会に出れなくなってしまった人間の数が如何に多かったか
を示していることは、どこかですでに触れたとおりである。
王朝転覆の狼煙が逃亡兵から上がったことは、避けられない流れだったことがわかる。
王嘉胤は逃亡して故郷の陕西省府谷県に戻っていたが飢饉で食うに困り、崇禎元(一六二八)年、仲間とともに蜂起した。
--いわゆる李自成の乱の始まりである。
王嘉胤が最も初期に蜂起した人物であり、
後に頭角を現す高迎祥、李自成、張献忠、王自用等は皆、元々は王嘉胤の部下から身を起こしたのだ。
そして当然、皆陕西の同郷でもある。
蜂起軍はまたたく間に広がり、陕西、甘粛、寧夏、山西で三万人を超える勢力に膨れ上がった。
その勢いは留まるところを知らず、明の兵部尚書洪承畴の率いる明の主力軍を破ったこともあった。
(ところで兵部尚書といえば、現代でいえば防衛庁長官のような地位。キャリアのトップが実際に軍を動かすんですかね。関係ないですが)
崇禎四(一六三一)年、蜂起軍は明の官軍延綏(えんすい)東路孤山総兵である曹文詔の圧倒的な兵力に囲まれたため、
押し出されるように陽城一帯に侵入した。
ところがここで当の王嘉胤が身内に殺されるという事件が起こる。
明末清初の王嘉胤の同族、同郷の残した記録によると、
王嘉胤を殺したのは、妻の弟張立位と同族の兄弟王国忠だったという。
山西陽城県で曹文詔軍が王嘉胤の蜂起軍と激戦を繰り広げたが、蜂起軍の士気は高く、
王嘉胤の指揮にも抜かりがなかったため、明軍は連戦連敗を余儀なくされた。
そんな中、王嘉胤の妻の弟である張立位が、偶然にも曹文詔の元で兵士になっていたのである。
前述のとおり、明代の身分制度は固定されており通婚もほぼ同戸籍内で行われた。
「逃亡兵だった」という王嘉胤の経歴を見れば、王嘉胤が「軍戸」出身だったことがわかるが、
ほとんど扱いの軍戸に、ほかの階層から嫁いできたいと思う女性はほとんどいない。
したがって王嘉胤の妻も「軍戸」家庭出身だった可能性が高いわけである。
その妻の弟がこれまた軍人としてどこかの部隊に所属しており、
それが偶然にも曹文詔の部隊だった、というのは驚くに値しない。
軍戸同士の姻戚。
一方が逃亡の末に反乱軍となり、もう一方がその身分当然の義務として官軍に配属されていただけの話である。
--張立位にしてみれば、まったく意図せぬところで、
自分の所属する部隊が討伐する対象が、なんと姉婿だったということになる。
そこで張立位は、自分が王嘉胤の妻の弟であることを上司に告げ、
王嘉胤軍に身を投じる振りをすれば隙を見つけて王嘉胤を殺すことができる、と献策した。
その案が採用された。
こうして張立位は曹文詔から派遣されて王嘉胤のそばに行き、王嘉胤に「帳前指揮」に任じられたのである。
何しろ妻の弟である。
相手に気を許すのは、当然の成り行きと言えよう。
ほどなくして王嘉胤は、泥酔しているところを
帳幕の中に忍び込んだ張立位と同族の王国忠の二人に寝首をかかれて殺される。
享年四十過ぎ。
蜂起軍はそのまま部下の王自用が仲間から推戴されて率いることとなる。
さて。
このように道徳もモラルもへったくれもない、
犬畜生な行動をとった後、この二人がどうなったかという結末も興味深いので、見ておきたい。
王嘉胤の妻の弟張立位は、王嘉胤を殺した功で明の崇禎帝に左衛協副将に取り立てられた。
その後も明軍のために将軍として戦いを率いた。
満州族との戦いで山西の殺虎口の戦役で重傷を負い、そのまま戦死した。
--死後、明の朝廷から「龍虎将軍」の追贈されている。
一方、王国忠の方といえば、王嘉胤を殺した功で「蒲州協副将」に任命された。
しかし後に李自成軍との戦いで敗れ、明の朝廷に免職される。
「王」姓のとおり、彼は王嘉胤と同族である。
いとことは言わぬまでも、はとこか、曽祖父あたりまでたどれば同じ血だったくらい近い仲だったのだろう。
その王嘉胤を殺して自分だけ出世したという経緯では、
原籍の府谷には戻ることはできない。
やむなく綏德(陕西省北部)に客住した。
しかしまもなく李自成軍の将軍の一人、李過の部隊が綏德を陥落させた。
かつての首領だった王嘉胤を殺した犯人の一人、蜂起軍にとっての叛徒王国忠を探し出すよう、李自成は李過に命じていた。
王国忠はじきに見つけ出され、その場で制裁として殺された……。
--以上が、陽城襲撃前後の内輪もめの顛末である。
皇城相府の城壁の上からの眺め
王嘉胤を失った後も陕西の蜂起軍では王自用が新たな首領に推戴され、「紫金梁」と号した。
各地の農民蜂起軍とも連合し、三十六営二十万人にも膨れ上がったのである。
……これが、陽城に押し寄せた農民軍の規模だ。
略奪なしにこの群衆を養えるわけがない……。
不完全な統計によると、崇禎五(一六三二)年、
「紫金梁」とその軍隊が陽城県内を襲撃すること十二度に渡ったことが判明している。
十月一ヶ月だけでも皇城、郭峪に四回侵入、崇禎六(一六三三)年の前半五ヶ月は七回も侵入した。
そもそも農民蜂起軍は、なぜ頻繁に陽城にやってきたのだろうか。
1、陽城は沁河のほとりにあり、沁河は東南に流れて鄭州近くで黄河に合流する。
つまりは黄河の支流の一つの流域に沿った地区である。
太行、中条、太岳の三山が交わるところにあり、山深く谷が入り込んでいて身を隠すにはちょうどよい。
しかもここから中原を俯瞰することができ、山西から河南の中原地帯に入ろうとする軍隊にはちょうどよい根拠地になる。
出ていけば中原を攻めることができ、負ければ退去して山の中に潜伏して体制を立て直すことができる。
このため古来より激戦地となってきた。
2、陽城は古来より経済的に豊かだった。
特に北部の北留、潤城の二鎮は沁河流域で最も栄えた石炭と鉄鋼の里、商業と貿易の重鎮だった。
澤州と西部の河東諸県を結ぶ交通の要所にもあるため、周囲はこの豊かな土地を取ろうと虎視眈々と狙っていた。
そもそも鄭州に近い、河をたどっていけば鄭州に出られるという位置関係が、
すでに安寧でいられない運命を決定づけている(笑)。
鄭州は古来より各勢力が激突する激戦地である。
西の勢力が勢いを拡大させようとすれば、黄河の川底に沿って東に出ようとするのが最も自然だろう。
陕西より北にいけば次第に寒冷になり、乾燥した土地でロクな食べ物はない。
西に行っても砂漠ばかりで、大した収穫にはならない。
南に行くには、山だらけで前に進めない。
東は豊かで食べ物もお金もたくさんあるし、行きやすい。
……となるからだ。
中国大陸は黄河と長江という二大大河が山を削りながら西から東に流れ、
その過程で削った土砂をどんどん東の河口に溜めて平らな土地を作り続けたことで出来上がっている。
東にいけばいくほど土地が平らになり、流域の栄養分を蓄えながら流れてくるので土地も肥沃、
海に近いから貿易も漁業もできる、と経済活動の種が山ほどある。
人口も多ければ生産性も高く、経済的にも豊かだ。
食えなくなって反乱を起こした人々が、東に向かおうとするのは、自然の流れである。
西の勢力が東に出る場合、もっとも歩きやすく平らな場所というのは河原になる。
山をえっちらおっちらと越えて行くよりも、勾配の少ない河原を行くのが最も安易に決まっている。
そして山がなくなり、ぱっと平原が開けたところにあるのが鄭州である。
そこから東には広大な中原平野が広がる。
気候も温暖、圧倒的な食糧の生産力を誇る中国大陸でもっとも豊かな土地と言っていいだろう。
今も河南省の一省だけで人口は一億人。
中国首位である。
鄭州は王朝交替のたびに激しい戦火にさらされてきたため、
これだけ古い歴史を持つ都市であるにもかかわらず、古跡がほとんどない。
残し得なかった宿命があると言える。
陽城周辺は、飢えた蜂起軍の大群襲撃に怯えていた。
実は陽城周辺では、崇禎年間以前にも、農民反乱軍の襲撃を受けたことがあった。
明の正徳七(一五一二)年、河北覇州の劉六、劉七の農民蜂起軍が皇城と山一つを隔てた西隣の白巷里に侵入したのだ。
それが現在の潤城鎮の上、中、下の三庄だが、当時は製鉄業で栄えていた。
村民が「大きな鉄釜で道を塞ぎ、屋根に上って瓦を投げつけ」て敵を撃退したという。
その当時、皇城、郭峪は潤城に比べて人口も少なく経済的にも豊かにではなかったために、襲われることはなかった。
明末になり皇城相府のある郭峪村、中道庄村の経済と文化が発展し、
樊渓河のほとりには豪商、政府高官の豪邸が軒を連ねるようになったため、当然農民軍の略奪の対象となった。
潤城屯城の出身で明末の刑部右侍郎だった張慎言が、免職になって故郷に帰っていた。
崇禎四(一六三一)年秋、張慎言は一族郎党の者たちと団結し、屯城に「同閣」と名付けた防衛土木工事を始めた。
「同閣」には身を隠すことのできる地下蔵もあれば、上から敵を攻撃できる城壁と防護壁もあった。
別名「砥洎城」。
ここは今回の旅でも回っているので、のちにレポートしたい。
砥洎城が完成したことにより、農民蜂起軍への備えが万全となった。
山一つ隔てたところに住む陳昌言、朕昌期兄弟には、それが大きな刺激になった。
蜂起軍が手前の潤城から順番に攻略しているという情報が、日々伝えられて来る……。
さらに山奥にある中道庄村でもその被害の甚大さを伝え聞き、危機感を強めて自らの防衛も始めたことがわかる。
--こうして『河山楼』の建設が始まったのである。
遠くに『河山楼』が見える。
『河山楼』の工事は、崇禎五(一六三二)年の正月明けに始まった。
写真を見てわかるとおり、地上六階建ての細長い塔である。
敵の襲来があれば、ここに立て籠もろうとした。
陳氏兄弟は一族郎党の者を動員し大工を招き、石三千個、レンガ三十万個を使ってわずか六ヶ月で完成させた。
何しろ蜂起軍の襲来が刻々と伝えられる中での工事である。
作る方も自分と家族の命がかかっているから必死の突貫工事となる。
入口の門は火攻めにも耐えられるように石で作り、後ろには頑丈な閂(かんぬき)を作った。
屋上には敵攻撃のための壁を備える。
『河山楼』
構造工事の終わった矢先の七月、内装工事を始める吉日を占っていると、突然賊の襲来が知らされた。
そこで慌ただしく石、矢、食糧、石炭、金目のものを運び入れ夜はぴたりと門を閉じて守備に入った。
立て籠もりの間の食糧はすべて陳家が提供し、楼の中には老若男女約八百人が避難した。
陳家が製鉄工房を営むために関わりのあった人々かと思われる。
屋敷の使用人だけでなく、近隣の村内に住む従業員や下請け業者、関連業者といった内輪の人々だろう。
まもなく賊が襲来、辺り一面が赤い装束の色で真っ赤に染まった。
--明末の李自成を中心とした陕西軍には歴史上、衣装の特徴的な名前は特についていない。
漢末の乱『黄巾の乱』、元末の乱「紅巾の乱」のようには……。
しかし陽城界隈を徘徊していた頃は、確かに赤装束で固めていたようである。
蜂起軍は郭峪の一鎮だけでも一万人ほどもいたかと思われる。
敷地内に乱入してくると金目の物を奪って回ったが、楼に入ることができないため腹いせに屋敷に放火を始めた。
近づけば上から矢や石の投下で攻撃されるので、賊は楼に近づくことができずにいた。
あまりの腹立たしさに飢え死に、焼け死に、渇き死ににでもさせてやらねば気が済まぬとばかりに賊は楼を包囲し始めた。
しばらく包囲して兵糧攻めにしてやろうとしたのである。
しかしそのような籠城戦を当初から想定していた陳兄弟は、
工事の最初から楼内に井戸を掘っており、数日程度の包囲ではびくともしなかった。
……とは言っても、敵に本格的に居座られれば今後何が起こるか予測不可能である。
楼の外の村の家屋の被害も拡大するだろう。
皇城相府『河山楼』。
包囲二日目の夜、このまま籠城が無事に行くのか、陳昌期(若き日の陳廷敬の父)は、行く先に不安を覚えた。
そこで楼から抜け出し包囲を突破して澤州府に救援を求めに行こうとしたのである。
賊軍が寝静まったのを見計らい、夜の闇に紛れて屋上から縄をつたって下に降りようとしたのだが、
腕力が足りず、降りる途中で手がすべって地面に落下した。
無理もない。
生まれた時から科挙への合格のみを目指し、
箸と毛筆より重いものなど手にすることもないまま成人した書生である。
気持ちだけが先立ち、肉体が伴わないことを自覚していなかったのである……。
陳昌期はそのまま気を失ったようで、屋上から見守っていた兄の陳昌言がいくら待っても
下からはうんともすんとも動向が聞こえない。
これは大変なことになったと兄の陳昌言は恐怖で凍りつき、頭の中が真っ白になった。
弟は落下して死んでしまったのだろうか……。
もし生きていれば、何としてでも助け上げて手当てせねばならぬし、
たとえ死んだとしても、このまま夜が明ければ大変なことになる。
死体が賊に見つかれば切り刻まれるのか、どんな壮絶な屈辱を受けるのか想像もつかない。
弟を行かせたことを後悔し、パニックの中で目まぐるしく次の方策を考えた。
一階の入り口を開けるわけには行かなかった。
重厚な石門は動かしただけで大きな音を立てずにはおかない。
付近で寝ている賊に気付かれることは必至だ。
そこで壮丁(=下僕)の李忠に五両の銀を与えるからと約束して、縄をつたって下に降りてもらった。
前述のとおり、この当時使用人の給料が一ヶ月一両程度だった。
五両といえば五ヶ月分の給料、現代でいえば百万円から二百万円といったところか(笑)。
命がけの仕事を引き受けてくれたわけである。
李忠が無事に下に降りると、
さらに上から竹籠を下ろし、陳昌期の身柄を籠の中に入れて引っ張り上げさせた。
--こうして生きているのか死んでいるのかはわからないが、とにもかくにもどうにか陳昌期の肉体を確保することができたのである。
陳昌期が意識を取り戻したのは、数日後のことだった。
信じられないことに体にはどこも異常はなく骨も折れておらず、頭もはっきりしていた。
わずかに額に血痕が残るのみだった。
こんな騒ぎがあった後では結局救援要請には行かずじまいである。
縄から手を滑らせて高層から真っ逆さまに下に落ちた陳昌期二十四歳は、まったく無傷のまま無事に生きながらえた。
救援を呼びに行く作戦をあきらめた陳兄弟は、次の方策を考えた。
すぐに音を上げて楼から出てくるだろうという敵の希望をくじくため、井戸から汲んだ水を楼の上から敵に示したのである。
それを見た賊は、いくら囲んでも水が豊富にあることを知って観念、わずか五日で包囲をあきらめあっけなく立ち去っていったのだった。
こうして賊は立ち去り、陳家では陳昌期を含め一人の犠牲者を出すこともなく危機を乗り切ったが、
楼から出て見ると、その惨状は目を覆わんばかりであった。
近隣の郭峪も含め、村中が放火され家財道具を持ち去られ、
その狼藉の跡を見れば、とても生活できるような状態ではないことは一目瞭然だった。
やむを得ず兄の陳昌言は年老いた母と一族郎党を率い、陽城の県城に一時期移り住むことになった。
陽城の県城は当時堅牢な城壁を備えていた。
それは明の万暦六(一五七八)年、潤城中庄出身の吏部尚書王国光(陳廷敬の妻王氏はその玄孫)が、
先頭に立って寄付を集めて建設したものだった。
こうして見ると、陽城の付近というのは、
確かに明代の頃から多くの中央官僚、尚書(=大臣)クラスの高官を輩出し、
その人たちが中心になって故郷の建設に貢献していることがわかる。
このように県城に住めば官兵が守ってくれるし、
堅牢な城壁もあるため、いくらか安心して暮らせるという判断だったのである。
ところが陳昌期は、家族とは行動をともにせず、
一人中道庄に残り、『河山楼』の内装や後続工事の指揮を続けた。
次の賊の襲来がいつ来るとも知れぬため工事は昼夜を徹して急がれ、十月には完成した。
楼の中には槍、銃、弓矢、投石用の石、火薬などが充分に備えられ、
地下室には井戸がほかにも、各種石臼などの長期生活のための調理器具も持ち込み、巧妙に煙の排気口も作った。
三階以上の階の床はすべて木を組み、楼の構造への負担を軽減させた。
さらには地下室から村の外に抜けられるように地下道を掘った。
こうしてあらゆる事態を想定し『河山楼』の防衛力は、さらに高められたのである。
楼の竣工した十月、再び賊兵が立て続けに樊渓河の両岸を襲った。
まさに間一髪……。
翌年の五月までに周辺の村落は度重なる襲撃を受け、その魔の手から逃れられたところはどこもなかった。
『郭峪村志』に収められる石碑の碑文によると、
斬殺、焼殺、首吊り自殺、井戸に身を投じた自殺、子供の餓死は千人を下らず、
幸いにも生きながらえた者も、ほとんどは体に障害を残す身になったという。
金目の物はすべて持ち去られ、驢馬の体の飾りつけでさえすべて持ち去られ、家畜は食べ尽くされた。
それでも『河山楼』の中に立てこもった人々だけでも無事に生きながらえることができ、現地の復興の中核となった。
皇城相府。 城壁の上から。
皇城相府
陕西の農民軍は陽城に留まることはなく、そのままイナゴの大群のように去っていった。
その後、王嘉胤の部下だった李自成の軍が首都の北京まで登りつめ、
一時期、紫禁城を占領はしたものの清軍に取って替わられた経緯は、歴史の証明するとおりである。
陳昌言は考えていた。
大急ぎで『河山楼』を作ったおかげで人間の命だけは取りとめたものの、
家財を奪われ、食糧、家畜を守ることができなかったことを……。
また老母を伴い、堅牢な城壁に守られた県城の中で暮らした経験から城壁の重要さを痛感していた。
幸い中道庄は大きくもなく家々は密集しており、村人たちは皆同族同士である。
そこで陳家の兄弟は一族の長老たちに相談した。
この際だから思い切って村を城壁で強固に守ってはどうか、と。
皆で出せるだけの資金を出し合い建設費用に充てようと提案したのである。
ところが思わぬことにいざ私財をなげうてということになると、反対する者も多かった。
そこはやはり人情というものだ。
金が絡んでくると人というのは世知辛いものである。
やむを得ず陳家は自分の家族の範囲内だけで城壁を建築しようと考えた。
しかし陳家の家屋の一部には、権利関係に問題があった。
すでに陳家の家屋が建てられているにも関わらず、
東西端の土地の権利をまだ買い取ることができていなかったのである。
貸すのはよいが売り渡すのは嫌だ、と持ち主が何世代にも渡って売り渡しを拒否し続けていたからである。
城壁を建てるに当たり、その土地の権利を完全に買い取るために大金を積んだ。
大工事をする以上、買い取るしかなかった。
--こうしてようやく土地の権利問題の不備をなくし、工事の準備が整った。
内城の城壁は崇禎六(一六三三)年に工事が始まった。
巨額を投じ、七ヶ月で完成させた。
名付けて『闘築居』。
――戦いながら生活、の意である。
山の斜面を利用して南北に展開させ、東西は河と谷の隔絶を利用した。
外界との出入りは西と北に二ヶ所、門はすべて鉄で覆って火攻め対策も抜かりない。
城壁工事に使ったレンガは合計三千万個、
山深い場所への資材の運搬、周囲で絶えない戦闘、略奪を思えば、そのスピードは奇跡的だったといえる。
堅牢な城壁が完成し、陳家の一族はようやく枕を高くして眠ることができるようになった。
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