いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

『紫禁城の月』と陳廷敬9、(写真中心)『屯兵洞』、大学士第 点翰堂 内府 小姐院

2016年09月10日 18時18分16秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
内城を後にする前に、『屯兵洞』を見ておこうということになった。
そこで山の手の方に上る場所を探す。

  


  




内城の山の中腹にある『屯兵洞』に到着。
ここは戦乱期、家丁(下僕)らを寝泊りさせるための宿舎。

合計5階建て、125部屋を供える。いやあああ。なかなかの迫力。
戦う本気度が伝わってきますな。

部屋同士は、つながっているものもあれば、いないものもある。
また上下階は中で行き来できるようになっており、そのまま室内から城壁の最前線に出ることもできる。

最上階は、山の手の城壁の中に作られており、城外に向けて狭間(さま、防護用の銃口を突き出す穴)が開けられているそうな。
東側の城壁は山の中腹にあり、敵がもし裏山から攻めてきて山の頂上から石や弓矢を降らせてきた場合は、非常に不利になる。

そのため山側の城壁には瓦屋根がついた構造になっていたという。
石や矢が降ってきても、直接戦う兵士に当たることがないように。


もちろん平和な時代が続くうちにそれはもはや必要なくなり、
朽ち果てた後は再建することはもうなかったのか、今はもうすっかりその姿はない。


   


      


ここでいったん、内城から出る。内城と外城の間の通路を歩いていると、
演目を終了させた役者の皆さんのお帰りに出くわした。









実は朝9時だかに、入り口の駐車場前の広場で「康熙帝のお成り」を再現した「皇帝行列」の演目が催されていた。
それがみたい気もしたが、この日は午後からも回る場所が目白押し、
ゆっくりばかりもしてはいられない、ということで、泣く泣くあきらめたのであった。

またこの演目が終われば、観光客がどっと城内に入ってきて一気に芋を洗うような大混雑になるだろうことが予測された。

したがって「鬼のいぬ間に洗濯」とばかりに、
行列の出し物の大音響を遥か遠くに聞きつつ、我々は、見物に明け暮れていたわけである。

よくよく写真を見ていただければわかるが、行列の官吏の服を着ているのは、ほとんどおばさんである(笑)。
重要な、皇帝の役などのみに、プロの役者さんを呼んでいる。

官帽を目深にかぶり、衣装をぶかぶかに着て体型をごまかしている。

働き盛りの男性は皆、都会に出稼ぎに出ており、中高年女性の方が集まりやすいということなのだろうか。
とにかく地域の雇用に貢献しているようで、けっこうなことかと思う(笑)。


  


  

道中の門構え一つとっても、どれも贅を凝らした彫刻が施してあり、ため息が出るわいな。
内城の北側を出たところで、外城の北側に少しだけ入る。











陳廷敬の功績の一つである、通貨制度の整備について、人形を使ったモチーフが展示されている。
このあたりの経緯については、『紫禁城の月 大清相国…』の中で生き生きと描かれており、
「おお。これですかい」と興味深々である。


さて。
ここで入り口近くまで戻り、外城の入り口に行くことにする。

……というか、実は何も考えずに夢中で突進して行ったので、外城から先にまわってしまったのだが、
本ブログでは、建築の年代順に追っていく、というコンセプト上、ここでようやく外城登場っす。




外城は、陳廷敬の時代に新たに作られた区域である。
平和な康熙年間後半、--康熙38-42年(1699-1703)。


戦争の心配のない時代に作られたため、防衛については形式程度にとどめ贅を尽くした造りになっている。




  

この門構えを見ただけでも、ゴージャスではないですかー。
陳廷敬のほかにも、兄弟7人が外地に官僚として勤め、せっせせっせと稼ぎを実家に持ち帰ってきた。

その後裔らも清代中期まではぼちぼち高級官僚を輩出、その他にも製鉄稼業で利益を出しているのだ。



大学士第『総憲府』。




別名『冢宰府』。


「冢宰」とは、宰相の別名。
つまりは宰相にまで登り詰めた陳廷敬の邸宅、の意。


一方「総憲」は、都察院左都御史の別名。
つまりは不正の告発官、悪と戦う正義の味方を象徴する呼び名。

陳廷敬本人としては、そういう自負を持って自宅を名付けたということになる。


  














  

入り口を入って最初の建物が、『点翰堂』。

掛かっている扁額の文字は、康熙帝の真筆と言われる。
長年、科挙の採点官を務めてきた陳廷敬のことを表現した。

康熙帝は洛陽へ行く道中、当時、服喪して故郷に帰っていた陳廷敬の邸宅に滞在したという。

『点翰堂』は、康熙帝が地元の官僚たちを謁見したり、旅の道中、日常政務をこなすための事務所として使われた。
その状態をそのまま保存している。




こちらの文字も、康熙帝の真筆。












陳廷敬が公務で出かける時に組んだ行列に使う各種道具ですな。









東側の部屋。


『点翰堂』から東を見ると、みごとな石刻のアーチ門が見えたので、
思わず誘われるように、そちらの方向にふらふらと向かう。
地図でいう『東花園』になりますな。


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北京の遺跡では、めったに見られないようなゴージャス、彫刻てんこ盛りな石刻を見て、
テンション上がりまくりでっす。


次に再び、『点翰堂』に戻り、さらに奥を進んで行く。
次の建物は、『内府』と呼ばれるエリア。


康熙帝の滞在時の生活空間となったところである。













北側の建物は、展示場になっている。
陳廷敬直筆の書状が残っている。






  





康熙帝の肖像画が、かかっているが、
ここがかつては大臣と政務の相談をする場所だったという。

康熙帝が去ってからも、そのままの状態で保存した。








次に、西の方にある『小姐院』に向かう。







  

『小姐院』は、陳家の未婚女性たちが暮らした場所である。
男性たちの目に触れないようにするために、ここから出ることは許されなかった。


正面の二階建ての建物に令嬢たちが住まい、東西の平屋には、女中たちが控えていたという。


女性たちのしつけを表すいくつかの表現がある。


  行不揺頭: 歩くときに頭を揺らさない。
  笑不露歯: 笑うときに歯を見せない。
  立不依門: 立つときに門にもたれかからない。
  座不顕膝: 座ったときに膝を見せない。

……本当のお嬢様というのは、立ち振る舞いも美しかったのだろう。

そのほかにも将来息子の科挙受験の勉強を見たり、夫と教養高い話のやり取りもできるよう、
男性と同じ儒教の古典の教養も教育された。




















女性たちの刺繍


  







『小姐院』の南側には、庭園が広がる。
屋敷の外には一歩も出られない女性たちにとって、ここが唯一、散歩できる場所だったのだろう。








陳廷敬の孫にあたる陳静淵という女性がいた。
陳廷敬の長男・陳豫朋の長女である。士大夫の家に生まれ、幼い頃から儒教的古典の薫陶を受けて育ち
長じてからは父親同士が友人関係にあった衛封沛の元に嫁いだ。


夫は科挙の初期段階に合格して貢生の資格を持ち、
二人の間には、息子が一人生まれた。

ところが、不幸にも夫はまもなく早逝。
やむなく息子を連れて実家に戻ってきた。

『小姐院』は未婚の若い娘が住む場所、
そのほかの各屋敷も、それぞれの家族が暮らしており、その家の男性がいるわけである。


このため、当時の習慣では、出戻った女性が他の家族と長く同じ屋根の下に住むことは好ましくないとされた。
……そのようなわけで、陳静淵が住まいにしたのは、止園の中の書堂であった。
(『止園』などの庭園は、残念ながら、カメラのトラブルで撮影していません)(号泣)


帰ってきてからも、憂いと病いに苛まれて、床に臥すことが多く、
結局、幼い息子をおいて、わずか23歳でこの世を去ってしまったのである。

まさに牢獄の中で過ごすかのように、限られた人間としか接触することが許されず、
移動の自由もなかった当時の女性というのは、生きる張り合いのようなものが、見いだせない人も多かったのだろうか。

いつも不思議に思っていたのは、康熙帝や乾隆帝の娘たち、--公主らの短命さである。

衣食足り、栄養不足には断じて思えないし、適切な医療が行けられなかったわけでもないだろうに、
なぜこんなに若くて死ぬねん、という疑問である。


康熙帝の成人した公主8人のうち、9女(20歳)、10女(26歳)、13女(23歳)、15女(19歳)の半分が若死に。
乾隆帝の成人した公主6人のうち、4女(23歳)、7女(20歳)、9女(23歳)、養女(26歳)、と実に4人が若死に。


その理由は、陳静淵と同じだったのかもしれない。
社会との関わりが持てず、生きる意味を見いだせなくなったことか。




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