12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

魂の平安

2012年09月26日 03時46分50秒 | 長寿

先日、ラジオ深夜便で、こんなことを聞いた。

寝ぼけ眼で、途中から聞いたので十分な理解ができていない。それでも、強く印象に残ったことを幾つか列記しておく。 ご参考になれば、幸いである。

 

講師は、柏木 哲夫(かしわぎ てつお、1939529- )は、日本の医学者、内科医、精神科医。

医学博士、人間科学博士。専門はターミナルケア。クリスチャンであり、日本メノナイト・ブレザレン教団石橋キリスト教会会員。淀川キリスト教病院名誉ホスピス長、大阪大学名誉教 授、Wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E5%93%B2%E5%A4%AB

 

金城学院大学 学長  柏木哲夫」

http://www.kinjo-u.ac.jp/m120-60/modules/tinyd/index.php?id=5

 

1.末期とは裸の魂になる時期、すなわち、社会的な衣(地位・名誉・富など)を脱ぎ去る日である。 

社会的な衣が剥げ落ち、むき出しになった魂に平安があるかどうかで、末期の辛さが異なる。すなわち、魂が平安であれば、終末も平安となる。 

これまで魂の平安が持てるような生活をしてきたかどうかで、魂の痛みの程度が決まる。

 

2.末期の母とその娘の双方に「再会の確信や永遠の命の確信があれば、平安な終末を過ごせた。」という、事例の紹介。

  

3.病気は死の体験;病気の度に軽い死の体験をする。・・・それなりの病気の度に、軽い死を経験し、心の平安を取り戻すきっかけにすると良いのだろうと感じた。

 

 

4.「・・・やさき症候群」; ”定年になったら、温泉に行こうと思っていた”やさき”に、末期ガンが発見された。” というような、何かの直前に(やさきに)とんでもない死病が発見されるということが世間にはしばしばある。 

それは、生の延長上に死があるのではなくて、生と背中合わせに死があるということである。

 

 キリスト教の敬虔な信者でない小生には、簡単にできそうにもないことであるが、こんな気持ちでまもなく来るであろう終末を平安に過ごせるように努力しようと思っている。

 

追記;Wikiにも同様な言葉が掲載されていた。 

言葉”

「人は死を背負って生きている」と述べる。 

つまり生と死の関係というのは、ちょうど一枚の紙の表に生があり裏側に死が裏打ちされているようなもので、(しばしば人は生と死を別々に考えがちだが)本当は常にひとつで、ちょっと風が吹けば紙は裏返り死があるような関係、と述べ、

 

死に直面してから突然あわてて死について考えるのではなく、普段から自分の死についてよく考えておくとよいとし、(毎日では多すぎるであろうから)せめて最低限、一年に一度、自分の誕生日には自分の死についてよく考えたり心の準備をしておくことを人々に勧めている。


最新の画像もっと見る