12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
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ユリアヌスの改革

2008年11月01日 06時52分24秒 | Weblog

前回、ユリアヌスは、このような難局といかに戦うか・・・・・。長々とお付き合い頂いてきたが、次回が小生の書きたかった第一番目の山場なのである。と書いた、その一番目の山場を始めることにする。

ガリア総司令官の期間は、ユリアヌス24才から28歳までの僅か4年間であった。現代の若者でいえば博士課程の学生に相当する年齢なのである。哲学の一学徒に過ぎなかった彼が、前半2年間でガリアの蛮族を平定し、後の2年間で改革をやってのけたのであった。

大帝のたった一人残された血縁という立場ながら、彼の父と兄はいとこの大帝の手にかかって殺されてしまった、ということは、いつ何時自分にも同じ運命が巡ってくるか判ったものでない立場なのであった。こんな若者が、どんな改革を実行したのか振り返って見る。

第一改革:無駄排除と節約
軍事も行政も機構が肥大化した結果自己保存力が働いて、無用な部署や費用がふえた。大なたをふるって、組織の簡素化と無駄の排除を実行した。

第二改革:税の公正徴集
地位の高いものや富裕者には甘く、低所得者には厳しかった税を、執行者の手加減を厳しく罰する事で牽制した。

第三改革:減税
特別税による増税どころか、既存の税の減税を命じ、地方自治の活性化をはかった。

例えば、「人頭税」を25ソリドゥスから7ソリドゥスに減税という画期的で大胆極まりない減税率とし、労働意欲の向上をはかった。

このように書いてしまっては面白くもおかしくもない通り一遍の精神論になってしまい、読者はしらけてしまうであろう。これを防止するためには、筆者はちょっと工夫が必要であると考えた。

あいにくと24才の時のエピソードを見つけることが出来なかったので、大帝の急な病死により彼自身が、正帝となった直後の29才の時のエピソードを引用することにした。

当時のローマ帝国の都は、コンスタンチノープル(イスタンブール)であった。この都に入って直ちに行った皇宮改革について書くことにする。

ユリアヌスが髪を切りたいと理髪師を呼んだ、高官のような美麗な服装の男達の一団が彼の前に現れた。ひときわ美麗な服の男が理髪師で、他の二十人の男達は助手だという。

官僚機構は自己保存を最優先とするため、周辺に寄生虫(同類)を増やすことで繁殖しようとする。それゆえに官僚機構の改革では、「自己改革力」を求めると期待はずれに終わる。

官僚機構の改革は、官僚達を「服従させ、強制的に改革できる力を持った権力者以外には出来ない」ことである。

衣装係も料理人も理髪師同様、職務を細分化し、そしてそれぞれにヒエラルキーを複雑に構成し、その結果多数の人間がぶら下がっていた。

はたまた、高給はもとより年金が保証され、各種手当や補助金がたっぷり支給されていた。

ユリアヌスは、理髪師は一人の助手を残したのみ、皇帝の身近にはべり誹謗中傷振り撒く宦官達は全て解雇、あらゆる部門は必要最小限の人員とし、広大な宮廷をスカスカにした。

何故このような過激な事が、若き一哲学学徒にできたのか知りたくなるはずである。そのためには、面倒でも退屈でももう少し付き合って貰う必要がある。

追記; 急な所要のため暫らく休みます。

おまけ;
今回はかなり殺伐とした話しになったので、気分を変えるため、玉野の菊花展を載せることにした。

スライドショーはこちらから
http://www.veoh.com/videos/v16410726pxrA7W4Y

 


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