この空の下で、この雲の変化する風景の中で、朽ち果てる今日まで私はあまり迷いもなかった。それは、さんらんたる王者の椅子の豪華さにほこり高くもたれるよりも、地辺でなし終えたやすらぎだけを、畑に、雲に、風に、すり切れた野良着の袖口から突き出たかたい皺だらけの自分の黒い手に、衒いなくしかと感じているか知れない。
洟をたらした神―吉野せい作品集 | |
吉野せい | |
弥生書房 |
ホークさんのブログで紹介されていて、なんとなく素敵!と感じたので、図書館に予約していました。
とはいえ、実際に本書を手にしたときには、どんな本というイメージがなく、小説なのか、エッセイなのか、また吉野せいという人がどんな人なのかなどの予備知識がほぼゼロの状態で読み始めたので、かなり戸惑いました。
前書きで串田孫一氏が
この文章は濾紙などをかけて体裁を整えたものではない。刃毀れなどどこにもない斧で、一度ですぱっと気を割ったような狂いのない切れ味に圧倒された。
と表現されていましたが、読み進んで、その言葉に納得。
吉野せい氏(女性です)は、1899年生まれ。福島県小名浜というところで生まれ、小学校教師を経て、文学をこころざすが、1921年阿武隈山系菊竹山麓の荒地一町六反歩の開墾に従事していた小作農民で詩人の三野混沌氏と結婚し、その後なくなられるまで”百姓”として生きた人とのこと。1970年に夫を亡くした後夫を亡くしたあと、かつてのことを思い筆をとった作品が本書におさめられています。
とにかく、とても不思議な作品集でした。
そこには、大正から昭和初期の小作農民としての掛け値なしの貧しさがあるのですが、土とともに生きる清々しさも感じられます。とはいえ、生まれながらの”百姓”ではなく、貧しさのなかで荒んでゆく気持ちを、冷静に見つめてしまい、それを書かずにはおられない好くも悪くも”インテリ”としての「業」を感じました。
前半の作品を読んでいる間は、貧しいけれども正しく美しく生きる賢い明治の女性という印象に少し、引き気味だった私ですが、中盤以降、戦後のエピソードなどが語られるようになり、夫との関係も少し見え始めて、ぐっと文章に入り込んで読めるようになりました、
誰かがそこで救われる謙虚な仕事に彼が酔うていることを、私は決して否みはしなかった。が、これだけはどうにもならぬおいかぶさる自分の肩の労苦に耐えて耐えて耐えぬくうちに、いつしか家族のためには役に立たぬ彼。これからさきもこの家を支えるものは自分の力だけを頼るしかないという自負心、その驕慢の思い上がりが、蛇の口からちらちら吐き出す毒気を含んだ赤い舌のように、私の心をじわじわと冷たく頑なにしこらせてしまった。
この部分を読んだときに、やっぱり社会主義の理想と現実の中で自身の世界に籠ってしまう夫との生活で、彼女は常に優しく、忍耐強く彼を支えたわけではなかったんだと、正直ほっとしてしまったのは、私も業の多い人間だからでしょうか。
彼女の故郷が、”フクシマ”として世界中に知られることになろうとは、彼女自身想像だにしなかったと思いますが、本書の中で、開墾地に近い炭鉱で働く炭鉱夫のことが何度か出てきましたが、確かに「フクシマ論」という本に、戦前、この地区で鉱山開発を行い賑わったが、その後廃れはじめたこの地域の活性化対策として、「原発」があったというような歴史が書かれていたことを思い出しました。
戦前から首都圏へのエネルギー供給地であり、今があるということを考えてみたときに、そのすぐ傍で、農地を開墾し極貧に喘いでいた”百姓”の姿があったのだと再認識できたこと、当時の社会主義者たちの純粋ながらも孤独な生き様などが伺えていろんな意味で、手にすることができてよかったなぁと思える一冊でした。
人気ブログランキングへ 本を読むペースが遅すぎ(=_=)
私のブログまで紹介して下さってありがとうございます。
少しでも本との出会いのきっかけになれたのならブログやっていて良かったです♪
吉野せいさん、きれいごとじゃないその「生活」を描写する筆の迫力に衝撃を受けました。
子供たちを見つめる目。周りの人たちにそそがれる思い。そしてyeastcakeさんも指摘されている夫に対してのどうしようもない距離感。まさに人間の業なのかも知れませんね。
現在の「フクシマ」を状況もあり、心にぐいぐい押し寄せてくる作品でした。
ホークさんが書いていられた通り、ほかに例えようがないという気がしました。
それでも、文章という手段を持たずに生きた多くの同時代の母親、妻の生の声を聞いたような気がして・・・字が書けなかった祖母の顔をちょっと思い出しました。