ポケットの中で映画を温めて

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『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』を読んで

2018年06月12日 | 本(小説ほか)
“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何か、その定義は?
というようなことがあやふやのままの状態なので、『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(ミシェル・マリ著・矢橋透訳、水声社:2014年刊)を読んでみた。

本書は6章建てで、映画における新しい波“ヌーヴェル・ヴァーグ”について解きほぐそうとする。
その内容は、訳者の後記が要約してしていると思うので、それをアレンジでして載せておきたい。

第1章「ジャーナリスティックなスローガン、新世代」

ヌーヴェル・ヴァーグという呼称じたいは、『エクスプレス』誌が主導した世代交代スローガンで初めて使われた。
それが映画界における新世代の登場に結びつけられたのは、成立間もないフランス文化省とCNC(国立映画センター)が管轄するユニフランス・フィルムが、1959年のカンヌ国際映画祭に出品されたトリュフォーやレネの新作を中心としてキャンペーンを張ったのが決定的であった。

第2章「批評的コンセプト」

このようにヌーヴェル・ヴァーグの発生には、国家による文化産業へのてこ入れが大きく関わっていた。
だが、どれほど国が動いても、「新しい波」じたいに力がなければ、大きなムーヴメントが起きるはずもない。
そうした実力は50年代において、『カイエ・デュ・シネマ』誌を中心とする批評家たちによって、理論的に着実に蓄積されていた。
アストリュック、トリュフォー、バザンらによって、映画芸術とは監督による映像的演出によって成立するのだという「作家主義」が綱領として打ち立てられていった。

第3章「製作・配給方法」

CNCはキャンペーンを張る以前から、作品の質的価値を基準とした助成金を交付することで、商業主義に流れる業界の体質改革に取り組み始めており、それがシャブロルの最初期作品などが生まれる原動力となった。
そのことはまた、助成金を利用して芸術的野心作を製作しようとする新世代プロデューサーの出現を呼び、ヌーヴェル・ヴァーグが運動として軌道に乗る最大の契機となった。

第4章「技術的実践、美学」

実際に批評家たちが映画を撮り始めると、ふたつの方向が分岐し始める。
ロケで都市や自然のなかに入り込み、そこでの偶発的事態をも取り込みながら即興的に物語りを生み出し、フィクションとドキュメンタリーの境界を溶解させ、あらゆる桎梏から離れた自由な創造を実現しようとする、ヌーヴェル・ヴァーグの理想をまさに体現した、ルーシュ、ゴダール、ロメール、リヴェット、ロジエらの流れ。
もう一方には、トリュフォー、シャブロル、レネらに代表されるより伝統的な映画製作の流れがあり、それは、監督による創造性の独占というよりも、新世代の脚本家との新たな協力関係であるとされる。

第5章「新しいテーマと身体ー登場人物と役者」
第6章「国際的影響関係、今日に残る遺産」と続くが、後は省略。

本書は、フランスにおける“ヌーヴェル・ヴァーグ”の発生形態、その定義について分かりやすく解説されている。
その方法は、ヌーヴェル・ヴァーグの全体像を知るためだから、個々の作品題名を上げてもいちいち具体的内容には追求していない。

“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何だったのか。
ひとことで言うと、
「1950年代末期からフランスで製作され始めた、旧来の映画が作り上げてきた伝統を打ち破るような映画群の総称。
代表的な監督にジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、クロード・ジャブロルらがいる。
もっとも“ヌーヴェル・ヴァーグ”の厳密な定義付けは不可能であり、それぞれの監督の映画製作方法と彼らが扱う主題を明確に区分けし簡単にまとめることもできない。
しかし“ヌーヴェル・ヴァーグ”の監督に見られたごく大まかな共通項として、自作の中で映画史に意識的であろうとし、主題と技術の両面で既存の映画作りを破壊・更新しようとする姿勢を挙げることができる」
(『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』紀伊國屋映画叢書3より)
となるか。

このヌーヴェル・ヴァーグについては書きたいことも結構あるが、そのことにのめり込んでしまうとあらぬ方向に行ってしまうので、それはいずれ落ち着いてからにしようと思う。

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