ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

「大江健三郎」 氏の逝去の報に接し

2023年03月13日 | 本(小説ほか)
「大江健三郎」 氏が亡くなったという。
3月3日、老衰だとのことである。まだ88歳だったというのに。
そう言えば、もう何年も近況の情報が聞けなかった。
今現在、どのように過ごしてみえるのかと気にはなっていた。

このブログ記事は書かないでおこうと思った。
しかし、後々、大江はいついなくなってしまったのだろうと振り返ってみた場合のためにメモしておきたい。

私が大江健三郎の作品に衝撃を受けたのは、家にあったそれこそ初期の全集の中の『奇妙な仕事』、『死者の奢り』を読んだのがきっかけだった。
なぜ、学生がこのような作品を書けるのか、そのテーマの捉え方にとてもではないが想像を絶するものを感じた。
私は大江よりそれこそ『遅れてきた青年』だったとしても、同じ20歳前後の人間として共感以上のものを感じた。
それ以後、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)からは同時代の人間として、新刊が出るたびにそれを手にした。

20代後半には講演を聴くチャンスにも巡り会え、あの四国の森の谷間の村についての歴史や伝承は、いつしか私の確固たるイメージ世界となって行った。
その世界ばかりでなく退職をしたら未読となっている作品を余生の糧として、ノンビリすべて読もうと考えていたが現実は案外と難しくて、
あの多大な作品数の中で、まだ3分の1ぐらいは未読のままとなっている。
でありながらも、大江健三郎は私にとって常に身近な存在としてあり、ものの見方、考え方はそこから吸収してきたと思っている。

今回の訃報を機に、今後もこの作家の作品を少しずつでも読み続けていきたいと心を新たにした。
ご冥福をお祈りいたします。
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『原節子の真実』を読んで

2021年01月06日 | 本(小説ほか)
『原節子の真実』(石井妙子著、新潮社:2016年刊)を読んだ。

14歳で女優になった。戦前、戦後の激動の時代に112本の作品に出演、日本映画界に君臨する。
しかし42歳で静かに銀幕を去り、半世紀にわたり沈黙を貫いた。
数々の神話に彩られた原節子とは何者だったのか。
たったひとつの恋、空白の一年、小津との関係、そして引退の真相――。
(新潮文庫の裏表紙より)

著者である石井妙子は、本名・会田昌江が原節子として映画界に関わっていく事柄に、その出生以前の親のことまで遡って追っていく。
その内容は、膨大な資料を読み漁り、他の者では真似ができない原節子に寄り添った緻密な内容となっている。

原節子は1920年に2男5女の末っ子として横浜で生まれる。
父親は生糸問屋を営み裕福だったが、世界恐慌以降生活は困窮していく。
家計を助けたいという思いから学業優秀だった節子は、女学校を退学して映画界に入る。
それには当時気鋭の映画監督、義兄の熊谷久虎の勧めも影響した。

と、戦前の時代状況も背景としながら丁寧に、若き原節子を蘇えさせる。
映画界が好きでなかった節子が、戦後、女優という立場に自覚を持ち、いかに黒澤明や小津安二郎の作品に対応して行ったか。
イングリッド・バーグマンに憧れて演技の参考にした節子が、あの小津の名作『晩春』(49年)や『東京物語』(53年)の主人公に共感を持っていなかったという。
原節子自身は自立する女性を目標とし、中でも明智光秀の娘である細川ガラシャ夫人を演じたいと熱望したが、最後まで叶わなかった。

私が原節子を初めて目にしたのは、時代もずれていることもあり、二十歳前後にテレビのNHKで観た『晩春』である。
笠智衆の父親、一人娘の原節子。
父親周吉は、独身の娘紀子が婚期がずれるのを心配しているが、紀子は父を一人にするわけにはいかないとその気がない。
周吉は自分にも再婚の話があるからと説得し、紀子はとうとう見合い相手との結婚を承諾する。
嫁入り前の二人の最後の旅行で、やはりこのまま父と一緒に暮らしたいと紀子は心情を漏らす。
紀子が嫁いだ晩、自分の再婚話は紀子を結婚させるための嘘だったと、一人、椅子でリンゴの皮をむきながらうなだれる周吉。

この作品の笠智衆、原節子は忘れられない。
それ以後、古い日本映画を観るたびに原節子を目にしてきて、その姿は脳裏に焼き付いている。

話は戻って、
思慕していた小津が亡くなったことにより原節子は引退した、というようなあやふやな情報を今まで私は信じてきた。
しかし、実際の原因は全然違うところにあるのがよくわかる。
いずれにしても、細かい内容をここで羅列するよりも本書を読んだ方が素晴らしいし、原節子その人の誠実さに納得もし共感できる、と思う。
一人の人生の生き方を知ること、後半に至る大半が謎のままとしてもこのような女優、女性がいたという事実は、いつまでも輝しく後生に引き継がれていくのではないか、そのような感想をもった。
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『女帝 小池百合子』を読んで

2020年06月17日 | 本(小説ほか)
話題の本、『女帝 小池百合子』(石井妙子著、文藝春秋社:2020年5月刊)を読んだ。

彼女は平成のはじまりに、華々しくテレビ界から転身して政治家となった。
二世、三世ばかりの政界で、たとえ政権交代があろうとも、沈むことなく生き抜いた。
「権力と寝る女」、「政界渡り鳥」と揶揄されながらも、常に党首や総理と呼ばれる人の傍らに、その身を置いてきた。
権力は入れ替わる。けれど、彼女は入れ替わらない。そんな例を他に知らない。

男の為政者に引き立てられて位を極め、さらには男社会を敵に見立てて、階段を上がっていった。
女性初の総理候補者として、何度も名を取り上げられている。
ここまで権力を求め、権力を手にした女は、過去にいない。
なぜ、彼女にだけ、それが可能だったのか・・・
(本書、序章 平成の華より)

そもそも、この作品化の動機は、小池がカイロ大学留学時に同居していたという早川玲子さん(仮名)の証言である。
著者は、身の危険も感じていると言う早川さんの元、カイロに飛び立ち当時の手帳やメモ、資料を譲り受けて調査する。

それを基に著者石井妙子は、小池百合子の生い立ちまで遡り、そこから今日に至る彼女の実像を探ろうとする。
第1章 「芦屋令嬢」
第2章 カイロ大学への留学
第3章 虚飾の階段 
と進み、その後 
第4章 政界のチアリーダー
第5章 大臣の椅子
第6章 復讐
第7章 イカロスの翼 と続く。
そして、 終章 小池百合子という深淵 で、今現在そのものの姿を記述する。

そこに描かれるのは、小池百合子の父親からの何らかの影響であり、果たしてカイロ大学を本当に卒業したのかの検証である。
そして、小池が権力志向主義であり、政策もないのに、いかにトップに上り詰める方法に知恵を働かせているかを、
彼女の著作物を検証し、その相互の矛盾点も小池自身の書き物や、当時の週刊誌等の記事によって暴き出す。

そのえぐり出される人間性は、
言っている内容が時と場合で違っても気にしない。
自分のプラスになる者には徹底してすり寄り、そのための努力は厭わない。
そして、もしこの人物が使えなくなったと思えば切り捨て、そればかりか、今までの味方でも敵と定めたら、徹底的に潰しにかかる、というもの。
余りにものえげつなさに、本当にそうだろうかとも疑問符を付けたくなるが、それも小池自身の言動によって実証する。

例えば、カイロ大学の卒業証書、証明書の件。
偽造はいくらでも出来ると言われるそれらの証書を、今までに見せたのは数回のみ。
それも、それが本物であるのか検証できない不明確な方法によってである。
それに対して、一緒に同居していた早川玲子さんは、卒業したと言う時期は、日本の父親から帰国を促されその後中退したのであり、
第一、その直前には進級試験に落第したと、当時の日記等で証明する。

それを後になって、「カイロ大学を卒業した日本人は、私の前には10年かかった人が一人いるだけで、私は4年で卒業し、それも首席だった」と吹聴する。
それが本当だったら凄いことである。何しろ、学生数10万人の中での首席である。
難解なアラビア語をまともにできない外国人の小池が首席ということは、実際の話どういう意味合いになるのか。

でもなぜ、そんな昔のことである大学の卒業の認否について、他人がそんなに拘るのかという疑問する人も出てくるであろう。
それについては、そもそも小池百合子がこのことを原点として「物語」を紡ぎ、要所要所でPRを重ねて現在に至っている、という事実がある。
だからこのことは、小池という人物の肝心かなめの大本の話だからである。

今月8日に、カイロ大学は学長名で「コイケユリコ氏が1976年10月にカイロ大学文学部社会学科を卒業したことを証明する。
卒業証書はカイロ大学の正式な手続きにより発行された」と声明は発表した。

だが気をつけてみなければいけないのは、腐敗がまかり通る軍事政権のエジプトでの、国家機関の配下のカイロ大学であると言うこと。
エジプトは、日本からの巨額の経済開発援助を受けており、その大学は政治から独立していない。
片や、小池の方はカイロ大学にも人脈を持っているようで、そんな大学のコメントは軽々しく信用しない方がよいと考えられる。
単純な疑問は、そのようなところから声明を出させるより、卒業証書、証明書をオープンに披露した方がよっぽど信用性が高いのに、なぜしないかということ。

久々に活字に没頭でき、読んでいる時間を忘れさせてくれた。
そこに書かれている文字は小難しくなく、それこそ夢中で推理小説を読む時のような快感も与えてくれた。
その内容は、今時点にぴったりマッチしているのは当然としても、やはり筆の力の面白さがベストセラーになる要素としてある。
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『成瀬巳喜男を観る』を読んで

2020年02月01日 | 本(小説ほか)
『成瀬巳喜男を観る』(平能哲也編・著、ワイズ出版:2005年刊)を読んだ。

この本は、成瀬巳喜男のいろいろな作品に当たりながら、特に演出術を中心として、成瀬映画の魅力を紹介している。
だから、多くの撮影現場や作品場面の写真が掲載されていて、気楽に読める代物となっているし、内容も当然充実している。

第1章:「成瀬映画はアクション映画である」
成瀬作品は、一見“静かな映画”にみえるが、登場人物がよく動くシーンとして、「歩く」、「振り返る」を、
そして、登場人物の顔や身体の陰影にアクセントをもたらす「光と影」、表現としての「人物の視線・目線の交錯」を紹介する。
著者は、それらを本来のアクションの意味である“動作”をもって、成瀬の作品はアクション映画だと言う。

第2章:「成瀬映画のテンポとリズム」
成瀬作品の、流れるような独特なテンポとリズムを生み出すシーンとシーンのつなぎ方を紹介し、
「フェードアウト、フェードイン」や、その「リズミカルでスムーズなつなぎ方」を説明する。

第3章:「成瀬映画のこだわり」
成瀬のこだわりとして、「雨」の場面や「チンドン屋」、「猫」の登場、そして「縦構図で見せる路地と玄関口」。
また、作品の内容に大きく関わってくる「不吉な電話と交通事故」や「お金にまつわるエピソード」。
そして忘れてはならないのが「ユーモア」である。

第4章:「成瀬映画の逞しい女たちと頼りない男たち」
多くの作品で、ラストシーンで一歩踏み出そうとする「逞しい女性像」があって、反対に、みすぼらしく「頼りない男性像」が成瀬映画の特徴となっている。

第5章:「作品分析『まごころ』と『娘・妻・母』」
戦前の『まごころ』(1939年)における子役たちの自然な演技を引きだす術、特に「目線の表現」を紹介する。
そして1960年の『娘・妻・母』は、世代的に3グループのオールスターキャストによる大家族のもので、
このたくさんの家族構成や各人のキャラクターを、手際よく観客に見せ理解させる手腕を紹介する。

第6章:「インタビュー石田勝心監督に聞く」
石田勝心(かつむね)は、東宝で成瀬監督の『杏っ子』(1958年)から遺作の『乱れ雲』(1967年)まで8本の助監督をし、
他にも多くの監督に付き、1970年に監督デビューした人物。
その人が助監督で成瀬に使えていた時の、現場でのエピソードなどを紹介し、その話題から成瀬その人が身近に見えてくる。

第7章:「成瀬巳喜男フィルモグラフィー」
計89本の、作品スタッフやキャストのデータと共に作品紹介もしてあり、資料としてとても参考になる内容である。

この本は図書館で借りてきたが、最後のフィルモグラフィーが50ページ程もある充実した内容となっている。
だから参考資料として使おうとすると、購入しておかなければいけないかな、と今は考えている。
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『成瀬巳喜男 映画の面影』を読んで

2020年01月19日 | 本(小説ほか)
『成瀬巳喜男 映画の面影』(川本三郎著、新潮選書:2014年刊)を読んだ。

“戦前の松竹では「小津は二人いらない」と言われ、戦後の東宝では名作を連打しながら、黒澤作品の添え物も撮った監督”
このように言われる成瀬巳喜男(1905~69年)の映画を、著者・川本三郎は全体を12章に分け本質を見極めようとする。

東京下町生まれの成瀬巳喜男は、父親が没落士族だったため家が貧しくて中学校に進めずに、技術者を育てる工手学校を出、
15歳で松竹蒲田に小道具係として入社する。
2年後に池田義信の助監督につくが、中々監督には昇進できず、入社から10年間下積みが続いた。
1930年にやっと監督デビューし、翌年ごろから認められていくが待遇は良くなかった。

1934年、東宝の前身であるPCLに移籍し、初トーキー映画を監督する。
翌年、『妻よ薔薇のやうに』を監督し、批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。
そのような職業監督としての成瀬の作品は、亡くなるまでに合計89本(サイレント24、トーキー65)にも及ぶ。
川本三郎はそれらの作品群の中から共通項を探り、成瀬の監督としての特徴を浮かび上がらせていく。

まずは、本人が貧乏を経験しているせいか、お金の話が多いということ。
それも男が女から金を借り、恋愛にまでお金の話が出てきて、金額さえ明確にする。

成瀬の映画は、大半が女性を主人公とした“女性映画”であり、ただ、恋愛物語を撮ってもメロドラマを描くことは苦手だったという。
そして、男女の組み合わせは、逞しく自立しようとする女性と頼りない男たちのパターンであったりする。

家庭を描く時、下町の個人店の設定が多い。
それは、一家みんなが貧しいながらも働いている姿が見えるからである。
その貧しい暮しをユーモアで包み込み、悲惨な状態としては捉えない。
また、作家・林芙美子とは作風の肌が余程合うのか、6本の原作を映画化している。

成瀬の作品では、美しい女優が常に出てくるが、『鰯雲』(1958年)では、その美しい女優にモンペ姿で野良仕事をさせる。
内容は、都市近郊の農村で起きている“壊れゆく家族”の様で、それを日常の出来事として捉えていく。
そして、それと絡めての恋愛映画とする。

『妻』(1953年)、『山の音』(1954年)、『乱れる』(1964年)ほか、作品には未亡人が多く登場する。
特に、戦争未亡人を設定することにより戦争の影を意識させるが、決して戦争そのものの作品は作らなかった。

『銀座化粧』(1951年)を代表するように、東京の昔ながらの下町の路地を舞台とし、そこに生活する庶民を描く。

『あらくれ』(1957年)は、成瀬の持ち味である叙情性からすると異色で、自立心の強い女性の流転の話で、
もっと、真の異色作として、暴れる女性としての『あにいもうと』(1953年)があるということ。

貧乏ギャグや子供ギャグを使ってのユーモアが、生活実態の微笑ましさを醸し出し、
そこでは、人の失敗を許し慈しみたいという、“弱者”への成瀬の思いが表されている。

川本三郎は、この他にも多くの作品を取り上げ、その内容を具体的に示して関連性を挙げていく。
そこにあるのは、著者の成瀬巳喜男に対する共感であり、その共感は二人に共通する“心のやさしさ”に基づいている。

ビデオレンタルが始まる以前は、旧作品の鑑賞方法は名画座でのリバイバル上映か自主上映、それかテレビ放映だけであった。
そんな中で、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、木下恵介などはある程度観ることができたが、
成瀬巳喜男の作品となるとトント目にすることがなかった。
だから、成瀬作品は『あにいもうと』、『銀座化粧』、『浮雲』(1955年)ぐらいしか観た記憶がない。

残念なのは、『妻よ薔薇のやうに』は長い間ビデオに録画してあったが、題名が気に食わないと感じて観ずに消去してしまった。
今後ひょっとすると、もう、観るチャンスがないかもしれないと思うと、悔やまれてしかたがない。
いずれにしても、余裕ができた日には成瀬作品をまとめて観てみたいと、この本によって刺激を受けた。
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『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』を読んで

2018年08月29日 | 本(小説ほか)
前に、『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(ミシェル・マリ著・矢橋透訳、水声社:2014年刊)を読んだ関係上、
『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(紀伊國屋映画叢書3、遠山純生・編集:2010年刊)を読んでみた。

1950年代末、フランスで起こった映画刷新としての「ヌーヴェル・ヴァーグ」、日本語にすれば「新しい波」。
この本はそれを総括しようと、作品に沿いながらその全貌を解読していく。

構成は、作品ごとの「解説」と「あらすじ」が主になっている。

作品としては、ヌーヴェル・ヴァーグの前段作品から始まり、1964年8月公開までの49作品が紹介されている。
当然、そこに網羅されている作品の監督群は、ヌーヴェル・ヴァーグにとって重要な位置を占める。
内訳としては、短・長編を合わせてジャン=リュック・ゴダールが10作品。
その次にフランソワ・トリュフォーが続き、
ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・ドゥミにアニエス・ヴァルダ等の名が出る。
そして、狭義のヌーヴェル・ヴァーグから言えば傍流かもしれないアラン・レネやルイ・マル。
異色なところでは「ヌーヴェルヴァーグの精神的父親」としてのジャン=ピエール・メルヴィルの2作品もある。
それらを含めて13監督の、濃厚な作品紹介となっている。

またこの本の内容は、監督ごとの作品紹介ばかりでもなく、「ヌーヴェルヴァーグ再考」としてヌーヴェルヴァーグの流れや、
「世界の“新たな波”、あるいはその余波」として、各国に与えた映画状況が示されている。
そればかりか、要所要所に、『美しきセルジュ』(クロード・シャブロル監督、1957年)についての翻訳記事、
『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(アラン・レネ監督、1959年)に対する翻訳座談会、
『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール監督、1959年)のカット割り台本のほか、興味深い翻訳記事が揃って充実した内容となっている。

ただ所々、作品の「解説」と「あらすじ」に、知りたい内容からずれた記事も見当たり、それがもどかしい印象を受けたりもする。
それでもやはりこの本は、ヌーヴェル・ヴァーグの作品を知るうえで最良の資料ではないかとの印象を受けた。
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『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』を読んで

2018年06月12日 | 本(小説ほか)
“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何か、その定義は?
というようなことがあやふやのままの状態なので、『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』(ミシェル・マリ著・矢橋透訳、水声社:2014年刊)を読んでみた。

本書は6章建てで、映画における新しい波“ヌーヴェル・ヴァーグ”について解きほぐそうとする。
その内容は、訳者の後記が要約してしていると思うので、それをアレンジでして載せておきたい。

第1章「ジャーナリスティックなスローガン、新世代」

ヌーヴェル・ヴァーグという呼称じたいは、『エクスプレス』誌が主導した世代交代スローガンで初めて使われた。
それが映画界における新世代の登場に結びつけられたのは、成立間もないフランス文化省とCNC(国立映画センター)が管轄するユニフランス・フィルムが、1959年のカンヌ国際映画祭に出品されたトリュフォーやレネの新作を中心としてキャンペーンを張ったのが決定的であった。

第2章「批評的コンセプト」

このようにヌーヴェル・ヴァーグの発生には、国家による文化産業へのてこ入れが大きく関わっていた。
だが、どれほど国が動いても、「新しい波」じたいに力がなければ、大きなムーヴメントが起きるはずもない。
そうした実力は50年代において、『カイエ・デュ・シネマ』誌を中心とする批評家たちによって、理論的に着実に蓄積されていた。
アストリュック、トリュフォー、バザンらによって、映画芸術とは監督による映像的演出によって成立するのだという「作家主義」が綱領として打ち立てられていった。

第3章「製作・配給方法」

CNCはキャンペーンを張る以前から、作品の質的価値を基準とした助成金を交付することで、商業主義に流れる業界の体質改革に取り組み始めており、それがシャブロルの最初期作品などが生まれる原動力となった。
そのことはまた、助成金を利用して芸術的野心作を製作しようとする新世代プロデューサーの出現を呼び、ヌーヴェル・ヴァーグが運動として軌道に乗る最大の契機となった。

第4章「技術的実践、美学」

実際に批評家たちが映画を撮り始めると、ふたつの方向が分岐し始める。
ロケで都市や自然のなかに入り込み、そこでの偶発的事態をも取り込みながら即興的に物語りを生み出し、フィクションとドキュメンタリーの境界を溶解させ、あらゆる桎梏から離れた自由な創造を実現しようとする、ヌーヴェル・ヴァーグの理想をまさに体現した、ルーシュ、ゴダール、ロメール、リヴェット、ロジエらの流れ。
もう一方には、トリュフォー、シャブロル、レネらに代表されるより伝統的な映画製作の流れがあり、それは、監督による創造性の独占というよりも、新世代の脚本家との新たな協力関係であるとされる。

第5章「新しいテーマと身体ー登場人物と役者」
第6章「国際的影響関係、今日に残る遺産」と続くが、後は省略。

本書は、フランスにおける“ヌーヴェル・ヴァーグ”の発生形態、その定義について分かりやすく解説されている。
その方法は、ヌーヴェル・ヴァーグの全体像を知るためだから、個々の作品題名を上げてもいちいち具体的内容には追求していない。

“ヌーヴェル・ヴァーグ”とは何だったのか。
ひとことで言うと、
「1950年代末期からフランスで製作され始めた、旧来の映画が作り上げてきた伝統を打ち破るような映画群の総称。
代表的な監督にジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、クロード・ジャブロルらがいる。
もっとも“ヌーヴェル・ヴァーグ”の厳密な定義付けは不可能であり、それぞれの監督の映画製作方法と彼らが扱う主題を明確に区分けし簡単にまとめることもできない。
しかし“ヌーヴェル・ヴァーグ”の監督に見られたごく大まかな共通項として、自作の中で映画史に意識的であろうとし、主題と技術の両面で既存の映画作りを破壊・更新しようとする姿勢を挙げることができる」
(『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』紀伊國屋映画叢書3より)
となるか。

このヌーヴェル・ヴァーグについては書きたいことも結構あるが、そのことにのめり込んでしまうとあらぬ方向に行ってしまうので、それはいずれ落ち着いてからにしようと思う。
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『ジャン・ルノワールの誘惑 薔薇のミロワール』を読んで

2018年05月04日 | 本(小説ほか)
『ジャン・ルノワールの誘惑 薔薇のミロワール』(若菜 薫著:鳥影社、2009年)を読んだ。

本書は、ジャン・ルノワールの映画作品の本質と思われるキー・ワードを使い、
第1章 水、変身、放浪 として、『素晴らしき放浪者』(1932年)等、関連する9作品を取り上げて論ずる。
第2章は、境界、脱出、自由 で、『大いなる幻影』(1937年)を中心に『捕らえられた伍長』(1962年)、『どん底』(1936年)を論ずる。
そして、それ以降の章で、
『ゲームの規則』(1939年)は「浮気と戦争」
『黄金の馬車』(1953年)は「演技と人生」
『フレンチ・カンカン』(1955年)は「恋の輪舞」
『恋多き女』(1956年)は「浮気と政治」
『草の上の昼食』(1959年)は「エロスとしての風」とし、それぞれのキー・ワードで各作品を論じていく。

著者はジャン・ルノワールに相当思い入れが強いらしく、熱心に個々の作品を詳細に論じているが、読者の私の方は、なぜか、もっと醒めた立ち位置にいるような感じになってくる。
それは、著者がルノワールの作品を強引とも思える程に、そのキー・ワードでまとめようとしているからではないか。

私の考えとしては、ルノワールの作品は何かしらの言葉に閉じ込めればいいと言う代物ではなくって、もっともっと自由な解放されたものとして成り立っていると思っている。
最も著者としてもこれらの作品を知り尽くしているはずだから、当然にそのようなことはわかったうえで、著作する書物を創り出すためにキー・ワードをひねり出しているのではないか、と勝手に想像してみたりする。
いずれにしても、この著作は力作だと認めても、読後感としては期待に反した何か物足りなさが残った。
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『ギャバンの帽子、アルヌールのコート』を読んで

2018年02月21日 | 本(小説ほか)

『ギャバンの帽子、アルヌールのコート』(川本三郎著、春秋社、2013年)を読んだ。

題名が『ヘッドライト』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1955年)を連想して洒落ているし、
副題も「懐かしのヨーロッパ映画」だから、何はともあれ、これは読まずにいられないと手に取った。

内容的には、著者自身の十代のころの映画体験を基にした、1950年代から60年代のヨーロッパ映画の作品が中心となっている。
その数は32作品。その中で、フランス映画が17本。
監督としてはジュリアン・デュヴィヴィエ、アンドレ・カイヤットの作品が4本ずつある。

国別で、次に多いのがイギリスで、ただその数はグッと少なくなって6本。
それも『第三の男』の監督、キャロル・リード作品が3本も占めている。

じゃ、お前はどれだけ観ているかと問われると、やはりちょっと心細い。
その数、わずか13本である。
そして、『バラ色の人生』(ジャン・フォレ監督、1948年)、『謎の要人・悠々逃亡!』(ケン・アナキン監督、1960年)に至っては、初めて聞く題名であったりする。

でも、この本を読んでみて嬉しいのは、フランソワーズ・アルヌールに関する作品が3本も紹介されているところ。
アルヌールに対する想いがなければ、『禁断の木の実』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1952年)、『ヘッドライト』、『女猫』(アンリ・ドコアン監督、1958年)と、
3本も紹介されるはずはない。
やはり、アルヌールに対する想いは、私一人ではないと心強くなる。

いずれにしてもこれらの作品に対する、著者川本三郎氏の熱い想いが文章の行間に表れていて、見逃している作品をどうにかして観たいと、流行る気持ちを抑えられなくなる。
映画好きと言うことも絡んでか、これは、読むことを夢中にさせる本であった。

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『フランソワーズ・アルヌール自伝』を読んで

2018年01月08日 | 本(小説ほか)

『フランソワーズ・アルヌール自伝』(フランソワーズ・アルヌール/ジャン=ルイ・マンガロン著、石木まゆみ訳、カタログハウス、2000年9月 )を読んだ。
副題は「映画が神話だった時代」。
未だに、十代に観た『ヘッドライト』(アンリ・ヴェルヌイユ監督、1955年)の“アルヌール”が忘れられなくて、ついに、インターネットで取りよせた本である。

アルヌールは、1931年6月、当時フランス領であったアルジェリアの生まれ。
それは、父がアルジェリア駐留の軍人で、それも将軍であったからである。
そして、少女時代を兄と弟とともにモロッコで過ごす。

戦後、父をモロッコに残した家族はパリに移り住み、映画好きな少女アルヌールは映画の世界に憧れる。
元々、女優志願だった母は、自分の夢を叶えようとアルヌールの後押しをする。
高校を中退し、母の知り合いのボエル=テロン夫人の演劇学校にアルヌールは通う。

そして、何度かのオーディションの後、OKが出て喜ぶが悲しいことに主催者側の都合でおじゃん。
その後、やっと掴みとった『七月のランデヴー』(ジャック・ベッケル監督、1949年)でデビュー。
その時、ひと言だけのセリフをもらったが、セリフ場面は編集段階でカット。
と、そのような興味深いエピソードが続いていく。

そればかりか、アルヌールが徐々にスターになっていくに連れて、仕事に絡む広範囲な人々や有名人、それ以外の交友関係も次々と綴られる。
あまりに出てくる人の名前が多いので、末ページの人名検索を数えてみたら800名以上になっている。
よくもまあ、こんなにたくさんの人たちの、名前ばかりかエピソードが出てくることかと唖然とする。
中でも、シモーヌ・シニョレとの長年の交友関係が興味深い。
勿論、連れ合いであったジョルジュ・クラヴァンヌとの結婚と離婚、映像作家のベルナール・ポールとの再婚と死別も書かれている。

ただ、この本で少し分かりづらかったりするのは、フランソワーズ・アルヌールが内容を書いたというより、共著の人にインタビューを受けて本にしているとの印象を受ける。
だから、そのエピソードの時期、つまり年月がよくわからなく、読み手がその書き手の人生の流れをスムーズに捉えることができない。
とケチをつけながらも、私にとってはそれでもいい。
なにしろ、人がどう言ようが、フランソワーズ・アルヌールだから。

出演作品54本(1991年時点)中、日本上映が23本。
その中でスゥーと私が思い出すのは、『フレンチ・カンカン』(ジャン・ルノワール監督、1954年)、『ヘッドライト』(1955年)、『女猫』(アンリ・ドコアン監督、1958年)ぐらい。
観ている本数は心もとないが、極端に言えばアルヌールの作品は、『ヘッドライト』1本を観れば十分。
それだけで、一生虜にされるから。
今、思い浮かべても、ビニールコートを着た哀しげなアルヌールの姿に、自然と涙が滲む。
どうにかしてあげたかったという想いが、いつまでも脳裏から離れない。

この『ヘッドライト』は去年の秋、テレビで放映されたと聞く。
いつ観たのか思い出せないほど、若かったころに観たこの作品を、再度観直したら記事にしてみたいと思う。
折角のアルヌールがらみだから、次回は『女猫』のことでも書いてみようかなと思っている。

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