ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『ひつじ村の兄弟』を観て

2016年08月25日 | 2010年代映画(外国)
ブログを始めて、1年とちょっと。
何も知らずに始めたが、この間、他の人の記事も読んだりして勉強になったことが多い。
それぞれの人が、それぞれの思いを記事にする。本当に素晴らしい世界がここにあるなと痛感しました。
しかし、私も思うところがあって、これで一先ず、このブログを中断しようと思う。
私の記事を読む人はそんなに多くはいないと思っていますが、それでも読んで頂いた人、
そして、読者登録をして頂いている人には感謝に耐えません。
今後、その気になった場合は、また一から出直そうと思っています。
ありがとうございました。

最後に、書き残した記事を載せておこうと思います。

久しぶりにDVDを観た。題名は『ひつじ村の兄弟』(グリームル・ハゥコーナルソン監督、2015年)。

場所は、アイスランドの人里離れた村。
老齢に近づているグミーはひとり、牧羊によって生計を立てている。
隣りの家では、兄のキディーがやはり一人で、同じような生活をしている。
だが、二人は40年間、全く口をきかないほどの不仲だった。

ある日、村で羊の品評会があり、兄キディーが優勝し、グミーは惜しくも二位だった。
グミーがこっそりと優勝した羊を調べてみると、その羊は疫病にかかっているような感じがある。
キディーは弟グミーの嫌がらせだと怒るが、結果は、伝達性海綿状脳症である“スクレイピー”と判明する。
保健所は感染の恐れのために、村の羊を殺処分することに決定する。
村人は、先祖代々から受け継がれて来た純血家畜用の羊が絶滅する危機に陥ってしまって・・・

広大な土地で羊が草を食む。そんな中に家がポツンとある。
羊と共にある生活。他には何もありそうに見えない。
そんな生活の中に突然降りかかる危機。
殺処分のために2年間分の補償をするといくら言われても、その間、村人たちは何をして過ごしたらいいのか。
そのために、とうとう村を去っていく者も出る。

そこで、グミーが考えたこと。
準優勝した雄羊と数頭の雌羊を家の地下に隠して育てること。
そうして、純血種を守ろうとの覚悟。
しかし事は、そうはうまく運ばない。
たまたま訪ねて来た保健所の者に、羊が出す音を感づかれてしまう。

その窮地を期に、グミーとキディーの間を再び結びつけるきっかけが始まる。
二人とも、羊に対する思いは同じである。
ラストの、兄弟愛による和解ののちに待ち受ける運命はどのようになるのか。映画はなにも語ってくれない。
その先はハッピ・エンドなのか、それともトラジック・エンドと思うのかは、観る人それぞれの考えで、となる。

アイスランドの作品を観るのは初めてでないかと思う。
出来もよくって、話の内容もわかりやすく、なかなかいい作品だなと感心してしまった。
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「杉山千佐子」という方について

2016年08月19日 | 社会一般
先日、テレビのローカルニュースで杉山千佐子さんのことを取り上げていた。
昨年10月に自宅で転んで入院し、退院後は一人暮らしをやめて老人ホームに入居してみえるとのこと。
画面を見る限り、部屋のベット生活が多そうに感じた。

杉山千佐子さんは1915年生まれ。来月で101歳になられる。
1945年3月、杉山さんは名古屋空襲で鼻の上部をえぐられ、左目を失った。29歳の時のことである。

私が若かった頃、国への抗議・要求のための集会、デモがよくあった。
そのデモの最後尾に、大きな眼帯を片目にした一人のおばさんが歩いてついてくる。
当時、変なおばさんがついてくるなあと不思議でならなかった。

その後30歳代の時、労働組合の動員で、野党の県本部へ衆院選挙の応援に行った。
一人で電話番をしていると、あのおばさんが入って来て、部屋の中をあちこち歩きながら何やらひとりでしゃべる。
歩くのをやめると私にも話かけながら、最後に、「傷痕」(全国戦災傷害者連絡会機関誌)を2、3冊くれた。
この時が、杉山千佐子さんの名をはっきり知った時である。

杉山さんは、57歳の時の1972年、戦中に傷ついた民間人は何の支援も受けられず放置されているとして、
全国戦災障害者連絡会(全傷連)を結成し、空襲による戦災障害者に対しての国の救済を求める運動を起こす。
それを受け73年から89年に14回、「戦時災害援護法」案が野党から提案される。

遡れば、軍人、軍属には1952年に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定され救済されるようになった。
また、原爆の被爆者援護施策としては、1957年に曲がりなりにも「原爆医療法」が制定され、「被爆者援護法」への流れを作った。
しかし、この「戦時災害援護法」案に関して、国(与党)は、「内地は戦場ではない、民間人は国との雇用関係がない」と応じず、結局は廃案にした。

2006年、杉山さんの軌道を追ったドキュメンタリー映画『人間の碑~90歳、いまも歩く~』(林雅行監督)がミニシアターで上映されたので観に行った。
映画の出来としては、正直、そんなに感心しなかったけれど、やはり、このような映画を作るということは、貴重だなと感じた。
しかし残念なことに、関連する第二弾の作品『おみすてになるのですか 傷痕の民』(林雅行監督、2010年)は見落としてしまった。 

2010年、杉山さんも老齢のため、全傷連は全国空襲被害者連絡協議会に合流。

100歳の誕生日の翌日の昨年(2015年)9月19日、安全保障関連法が成立。
杉山さんの「百歳までに」との願いは、とうとう届かなかった。
そして、旧軍人軍属や遺族には恩給や弔慰金を50兆円支払うことができても、民間人は今だ無視されたままとなっている。

それでも杉山さんは、
「戦争は兵隊だけがするんじゃない。空襲で被害を受けたのは、女子どもと老人です。
弱い者が最後まで放ったらかし。このまま死ぬわけにはいかない。

この援護法を作っておけば、国民も軍隊と同じように保証すべきであるということが決まってくる。
戦争をやろうと思ってもどえらい金が必要になりますから、この前の戦争のように、国民を塵芥のように使って使い捨てすることができないようになる。
私の時に実現できなくても、世の中にこういうことを言い続けた女がいたと、誰かが引き継ぐ。活動をはじめたときからそういう考えです」
と希望をもつ。
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『伊丹万作エッセイ集』より「戦争責任者の問題」について

2016年08月15日 | 本(小説ほか)
戦前の映画監督であり脚本家であった著名人のひとりに伊丹万作(1900-1946)がいる。
監督としての代表作に『國士無双』(1932年)、『赤西蠣太』(1936年)があるが、残念なことに、この二作は完全な形でフィルムが残っていない。
伊丹万作の名は、どちらかと言えば『無法松の一生』(稲垣浩監督・1943年版および1958年版、ほか)のシナリオの方が有名かもしれない。

また、よく知られているように、伊丹万作の長男は故伊丹十三で、長女がゆかりさん。ゆかりさんは大江健三郎夫人である。
このような関係からか、伊丹万作の著作集の中に、大江健三郎編として『伊丹万作エッセイ集』(筑摩叢書、1971年)がある。
若かった頃から私は大江健三郎に傾倒し、伊丹万作の名も知っていたため、このエッセイ集が出ると早速読んだ。
その中で、今でも妙に印象が残っているのが、「戦争責任者の問題」と題する文である。
それを要約して載せておこうと思う。

“多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。

いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、
つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 
だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
私は、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

つまりだますものだけでは戦争は起らない。
だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、
戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、
信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。
また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。
 
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、
私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、
徹底的に自己を改造する努力を始めることである。”
(『映画春秋』昭和21年8月号)
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『真実 パトリシア・ニール自伝』を読んで

2016年08月07日 | 本(小説ほか)
エッセイ集『一人になった繭』(澤地久枝著、文春文庫・1999年)の中に「愛情の美学」と題して、
ゲーリー・クーパーとパトリシア・ニールの恋愛について書いてあった。
そのことに興味をそそられて早速、『真実 パトリシア・ニール自伝』(パトリシア・ニール/リチャード・ディニュート著、兼武進訳、新潮社・1990年)を読んだ。

パトリシア・ニールは、1926年にケンタッキー州パッカードで生まれる。
10歳の時に朗読を学び、その関連で演劇に興味を持ち、本格的にその世界に入っていく。
そして、19歳の時にブロードウェーで初舞台を踏み、翌年、リリアン・ヘルマン作の『森の他の部分』(森の別の場所)が成功する。
それと共に、ハリウッドから声がかかる。

映画2作目の『摩天楼』(キング・ヴィダー監督、1949年)でゲーリー・クーパーと共演し、恋に落ち入る。
クーパー46歳、ニールが21歳の時である。
当時ゲーリー・クーパーには、妻ロッキーと娘のマリアがいて、結局、二人の仲は破局する。

その後、リリアン・ヘルマンのパーティーの席で作家ロアルド・ダールと知り合い、1953年、27歳の時に結婚。
しかし、60年代になると次々と不幸に見舞われる。
1960年、長男のテオが、生まれて4カ月の時に交通事故に会い、脳に障害を受ける。
翌年は、関係はなくなったと言っても、あのクーパーが死亡。
そして1962年、7歳の長女オリヴィアが風疹にかかり、それがもとで脳炎になり死亡する。

そんな失意のうちの時期だったが、『ハッド』(マーティン・リット監督、1963年)によりアカデミー賞主演女優賞を受賞する。
喜びはつかの間で、翌年1965年の39歳の時、5番目の子を妊娠中に脳卒中で倒れる。
そのために記憶、言語、手足などの機能障害となり、懸命なリハビリの末、少しずつ回復に向かう。
しかし、最後には夫ロアルドの不倫が影響して、1983年に離婚。

人生は、人それぞれで何ひとつ同じものはない。
現時点を生きるということ。その先に待ち受ける運命は誰にもわからない。
パトリシア・ニールの場合、栄光と失意がごちゃ混ぜになって、これが一人の人間の味わう人生かと考えてしまう。
それこそ、これがフィクションでないのが不思議なくらいの物語である。

ゲーリー・クーパーとの出会い。妊娠、中絶。
一緒に家庭を持てないことの絶望。そのパトリシア・ニールの想いが切ない。
ロッキーと娘マリアに憎まれて30年ほど経ったある日、偶然にマリアと再会する。
そのマリアが「ひとりっ子だから、もう一人、兄弟が欲しかった」と言う。
パトリシア・ニールが中絶し、生まれてくるはずだった子のことを二人は思い描く。和解。
和解は、その後ロッキーともなされる。
ロッキーのアパートで、マリアとパトリシア・ニールとの三人の食事。
亡きゲーリー・クーパーを中心とした想いの食事。解きほごされた感情とおだやかな雰囲気が漂う。

家族に見放され、すべてを失ったパトリシア・ニールは、マリアの紹介で知った修道院を訪れる。
怒りと絶望にまみれた彼女に、修道院長は「過去にこだわることをやめて、自分の人生を取り戻すこと」を諭す。
そして、修道院長のいう「ほかのすべてが奪われてしまった後にも残っている愛、そのような愛に至る道」を探し求めるために、この自伝は書かれている。
だから、赤裸々な内容がその時々の感情のまま、素直に隠し立てなく綴られている。

読み終わって、ひとりの人生を垣間みる思いと同時に、その心持ちに感動を覚えずにはいられなかった。
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『トランボ』を観て

2016年08月03日 | 2010年代映画(外国)
先週のことになるけれど、劇場で『トランボ』(ジェイ・ローチ監督、2015年)を観た。

第二次世界大戦後のアメリカ。
東西冷戦を背景に、共産主義排斥活動“赤狩り”が猛威をふるい出し、その標的はハリウッドにも及んできた。
そのハリウッドでは、1944年に設立された「アメリカの理想を守るための映画同盟」が“赤狩り”に協力的な姿勢を示す。

脚本家ダルトン・トランボも、アメリカ共産党の党員だった関係上、疑惑を持たれる。
1947年、トランボは下院非米活動委員会の聴聞会に呼び出される。
が、彼は言論の自由を盾に、自身が共産主義者であるかどうかという証言を拒否する。
その結果は、裁判の末に議会侮辱罪の罪で投獄となる。
出所後、愛する家族の元に戻ったトランボだったが、映画界からは事実上追放されて、もはや彼には仕事がなかった・・・

私がダルトン・トランボを知ったのは、『ジョニーは戦場へ行った』(1971年)が公開されて観た時だから、あれからもう45年が経つ。
トランボ自身の1939年の原作を監督したこの作品は、当時随分と評判が高かった。
あれ以後、トランボについて意識の下には残っていたが、今回珍しく、久し振りに彼の名を聞くことになった。

ダルトン・トランボは“ハリウッド・テン”の一人である。
“ハリウッド・テン”は、アメリカ合衆国憲法修正第一条で保障された基本的人権を根拠に、証言したり召喚されたりするのを拒んで、
議会侮辱罪で有罪判決を受け、実刑を受けた主要な10人である。
だから、トランボは出所後も、ブラック・リストに載っているために仕事をさせてもらえない。

生活のため、トランボは他人名義や偽名で脚本を書く。
その中で、もっとも有名な作品が『ローマの休日』(1953年)。
そして、『黒い牡牛』(1956年)。
この2作がアカデミー原案賞に輝いた。

「アメリカの理想を守るための映画同盟」の声明は、
“アメリカ的な生き方のすばらしさを信じて、選択の自由と拘束されない自由を、
そして個人として、自由な人間として、発言、思考、生活、信仰、労働、自治する自由な人間として、
自分自身の能力と力に従い、成功も失敗もできる権利を信じている。
よって、共産主義やその思想の台頭に、強い不安と不快を覚えている。”とし、
“赤狩り”は、あのチャールズ・チャップリンも追放した。

このような状況のなかで、皮肉なことにアメリカ映画界は、追放したトランボが書いた脚本に最高の賞を与える。
要は、個人としての自由を守ると言いながら、他人の自由を抹殺し、リベラルな人達を映画界から追放した。
このことは、何もアメリカだけのことではなく、ヨーロッパも、そしてこの日本にも及んだ。

その日本の現在を考えてみると、昨年、自民党の文化芸術懇話会での「マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい」等の発言を思う時、
アメリカの“赤狩り”は決して過去の話ではなく、形を変えて、権力者による言論の自由、思想の自由を統制しようとする意図が垣間みえてしまう。

この映画は、そこまで深読みしなくても、わかりやすく描かれているので、
自伝としてのトランボという人物と家族に対して、自然に共感が湧きあがってくる。
その反面、社会的背景の追求が物足りないかもしれない。
でも、考え方によっては、そのことが一般的に理解しやすい内容となっているな、とも思う。
いずれにしても、この作品は私にとって、重要な作品のひとつだと思っている。

それにしても、日本の副題はひどすぎる。
「ハリウッドに最も嫌われた男」では内容の本質を捉えず、トランボを蔑んだ作品かと錯覚してしまう。
制作に携わっている人たちの、トランボに対する敬意がにじみ出ているのを考えると、
せめて「ハリウッドから追放された男」ぐらいにすべきではないか、と思う。
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