ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

ジュリアン・デュヴィヴィエ・7〜『巴里の空の下セーヌは流れる』

2017年11月29日 | 1950年代映画(外国)

『巴里の空の下セーヌは流れる』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1951年)を観た。

夜明け、寝静まっているパリの街の上を運命の神が巡回し始め、その運命に捕えられたパリジャンたちの一日の生活が動き出す。

神経を病んでいる彫刻家のマチアスは、連続する若い女性殺害事件にどうも関係しているらしい。
ひとり暮らしの老女ペリエは、多くの飼い猫のミルク代に事欠いて途方に暮れる。
職工エルムノーは、妻との銀婚式を家族たちと祝うことになっているが、職場でストをしているためにどうにもならない。
内気な医学生ジョルジュは、インターンの口述試験を前にして、病院内でも落ち着かない。

リヨン駅に、若い女性ドニーズが降り立つ。
そして彼女は、旧友のマリー=テレーズを訪ねる・・・

いろいろな人々が接点を微妙に持ちながら、パリを背景にしてエピソードを展開していく。
そのパリでの24時間。
勿論、登場人物はもっといて、特に青果店の少女コレットはとても印象強い。
これらの人たちが混然一体となって、ドラマは進む。
そのエピソードのひとつひとつが興味深くって、些細なことまで飽きが来ない。

この作品を随分以前に観ていても、エピソードの積み重ねの内容までは憶えていない。
それでも、その雰囲気はずっと記憶にあって、私にとってはやはり好きな映画の一つである。

面白いことにこの作品、パリ市当局から委嘱を受けた「パリ二千年祭記念映画」だという。
私が凄いと思うのは、当時のパリ市当局。
映画制作をジュリアン・デュヴィヴィエに依頼すれば、過去の作品からおおよその雰囲気は想像できるというもの。
やはり、出来上がったこの作品もペシミニズそのものである。

最後には、若いドニーズは彫刻家マチアスに喉を掻き切られるし、偶然の運命なのか職工のエルムノーも撃たれてしまう。
一般的に考えれば、記念映画となれば華やかで明るい作品をとなるところを、デュヴィヴィエの陰鬱さでも良しとし、依頼するところが凄い。

今ではスタンダード・ナンバーになっている主題歌の『パリの空の下』を、YouTubeから貼り付けておこうと思う。
場面は、職工エルムノーがストライキから抜け出し、家族たちとつかの間の祝宴をするところ。

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ジュリアン・デュヴィヴィエ・6〜『舞踏会の手帖』

2017年11月26日 | 戦前・戦中映画(外国)

懐かしい『舞踏会の手帖』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1937年)を観た。

湖畔の古城に住むクリスティーヌは、夫が亡くなり、遺品を整理しながら、思い出の数々の品も炉に燃やした。
その時に、ふと取り落とした一冊の手帳。
それはクリスティーヌが16歳の時、舞踏会の初舞台でダンスした相手を記したもの。

あの時、踊りながら恋をささやいた人たちは、20年経った今どうしているのか。
クリスティーヌはこの手帳を旅行案内書として、過去のダンスパートナーを尋ねて回る・・・

最初に訪れたのがジョルジュの家。
そして出迎えてくれたのが、ジョルジュの母親だった。
母親はクリスティーヌのことを知っているが、精神を病んで過去の世界にさまよっている。
その原因は、クリスティーヌが婚約した時、それを聞いたジョルジュが自殺をしてしまったからだ。
この母親役のフランソワーズ・ロゼーの真に迫る、過去に生きる様子ぶりを見ていると、つい目が離せなくなりその後のエピソードも知りたくなる。

それ以降、クリスティーヌとダンスをした他の7人の現在が、オムニバス形式に順次進んでいく。

キャバレーを経営しているピエールは、名をジョーと変え、暗黒街の前科者になっている。

ピアニストのアランを訪ねると、今は聖ドミニコ会の神父になっていた。

山岳ガイドになっているエリックは、彼となら人生を再出発できるかもしれないと思うクリスティーヌを置いて、雪崩の災害救助に向かう。

南フランス海岸の田舎町。
クリスティーヌが訪れた日、町長になっているフランソワは、メイドを後妻に迎える結婚式で大忙しだった。

マルセイユの医師ティエリーは、半狂乱の廃疾者のようになっていた。

クリスティーヌの生まれ故郷で理髪師をしているファビアン。
彼と日曜の夜の舞踏会へ行ってみたが、そこにあったのは、思いも寄らない侘びしい舞踏会だった。

幻滅と共に帰ってきたクリスティーヌは、秘かに愛していたジェラールが湖の対岸に住んでいると初めて知った。
しかし、訪れてみると彼は一週間前に死んでいた。

人生の変遷。
あれから20年経ったとしても、クリスティーヌはまだ36歳のはずである。
クリスティーヌにとって、あまりにも暗すぎる相手の人生ではないか。
観ている今の私の年齢で、ひしひしと実感できる内容だなと思うが、
始めて観た高校生の時でも、深夜のテレビ放映を翌朝の寝不足を気にしながら、つい最後まで観てしまった。
それを考えると、どの世代でも引きつける内容ということか。

この作品は、デュヴィヴィエの作品の中でも一番、デュヴィヴィエらしいと評価されている。
脚本も自ら書いて、そのオリジナリティの内容がデュヴィヴィエの特徴を余すところなく発揮されているということになるのだろう。
いずれにしても、ペシミスティックな内容を、ラストで希望をほんのり未来に繋ぐところが素晴らしい。
当時のキネ旬ベスト・ワンの評価が納得できる、思い出の作品であった。

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古典フランス映画ビッグ5のベスト・テン

2017年11月23日 | 古典フランス映画ビッグ5
古典フランス映画ビッグ5のベスト・テン(キネマ旬報)
 
(発表年) (順位) (題名) (監督)
1927年 9位 カルメン ジャック・フェデー
1931年 2位 巴里の屋根の下 ルネ・クレール
  4位 ル・ミリオン ルネ・クレール
1932年 1位 自由を我等に ルネ・クレール
1933年 2位 巴里祭 ルネ・クレール
1934年 1位 商船テナシチー ジュリアン・デュヴィヴィエ
  3位 にんじん ジュリアン・デュヴィヴィエ
1935年 1位 最後の億万長者 ルネ・クレール
  2位 外人部隊 ジャック・フェデー
1936年 1位 ミモザ館 ジャック・フェデー
  2位 幽霊西へ行く ルネ・クレール
  4位 白き処女地 ジュリアン・デュヴィヴィエ
  5位 地の果てを行く ジュリアン・デュヴィヴィエ
1937年 1位 女だけの都 ジャック・フェデー
  2位 我等の仲間 ジュリアン・デュヴィヴィエ
  3位 どん底 ジャン・ルノワール
  8位 巨人ゴーレム ジュリアン・デュヴィヴィエ
1938年 1位 舞踏会の手帖 ジュリアン・デュヴィヴィエ
  3位 ジェニイの家 マルセル・カルネ
  7位 鎧なき騎士 ジャック・フェデー
1939年 1位 望郷 ジュリアン・デュヴィヴィエ
1940年 10位 幻の馬車 ジュリアン・デュヴィヴィエ
1946年 2位 運命の饗宴 ジュリアン・デュヴィヴィエ
  5位 南部の人 ジャン・ルノワール
  9位 肉体と幻想 ジュリアン・デュヴィヴィエ
1948年 5位 旅路の果て ジュリアン・デュヴィヴィエ
  7位 悪魔が夜来る マルセル・カルネ
1949年 2位 大いなる幻影 ジャン・ルノワール
1951年 6位 悪魔の美しさ ルネ・クレール
1952年 3位 天井桟敷の人々 マルセル・カルネ
  4位 ジャン・ルノワール
  9位 巴里の空の下セーヌは流れる ジュリアン・デュヴィヴィエ
1954年 1位 嘆きのテレーズ マルセル・カルネ
  8位 陽気なドン・カミロ ジュリアン・デュヴィヴィエ
1955年 4位 埋れた青春 ジュリアン・デュヴィヴィエ
  7位 フレンチ・カンカン ジャン・ルノワール
1957年 6位 リラの門 ルネ・クレール
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・5〜『望郷』

2017年11月21日 | 戦前・戦中映画(外国)

ジュリアン・デュヴィヴィエと言えば、『望郷』(1937年)。

フランス領アルジェリアの首都アルジェ。
その一画の、イスラム教徒らが集まり人種のるつぼとなっているカスバ。
このカスバに、犯罪者で、パリ警視庁から逮捕状が出ているフランス人ペペ・ル・モコがいる。
ペペは若い子分のピエロや強欲なカルロスらに守られ、住民からも畏敬されている。
だから、アルジェの警察当局が何度カスバを襲ってみても、どうしても彼を捕えることができない。
しかしペペにしても、このカスバから一歩でも外に踏み出せば、即逮捕されることはわかっている。

今回もパリの警視庁は、腕利きの刑事を送ってカスバをガサ入れした。
丁度そのとき、ここに見物に来ていたフランス女性のギャビーが、騒ぎの中で連れの者とはぐれてしまった。
ギャビーはアルジェ警察の刑事スリマンに助けられ、原住民の家へ避難する。
と、そこに、警察から逃れ、腕に負傷したぺぺが入ってきて・・・

ペペとギャビーの出会い。ジャン・ギャバンとミレーユ・バラン。
それに刑事スリマンが絡んで、その後の成り行きを暗示させる場面、それが何とも印象深い。
閉塞されたカスバでの生活にうんざりしているぺぺと、連れの酒商に飽きあきしているギャビー。

ギャビーによって、パリへの郷愁を甦えさせるぺぺ。
行き着く果ては、ペペにとって何物にも代えがたいギャビーへの想い。
それをチャンスと策略するスリマン。
ギャビーに会おうとペペがカスバから出て行くのを追う、情婦イネス。

ストーリーは一見単純そうでも、画面、画面の的確さとテンポの良さもからんで、単なるメロドラマには終わらせない魅力。

ラスト、ギャビーはペペを想い、船の甲板に出て陸のカスバを見る。
手錠のペペは叫ぶ「ギャビー!」
汽笛で消されるペペの叫び。

何度観ても、凄いと思う。
遠い昔に観て、自然と眼に焼き付いて忘れられない場面、このような作品が本当の名画ではないかと思う。
鉄扉に崩れるペペと、駆け寄るイネスの表情が忘れられない。

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ジュリアン・デュヴィヴィエ・4〜『ゴルゴダの丘』

2017年11月19日 | 戦前・戦中映画(外国)
『ゴルゴダの丘』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1935年)を観た。

ローマ暦786年。
過越祭を迎えるため、エルサレムには全国から大勢の巡礼者が押し寄せていた。
弟子たちからキリストと言われているナザレのイエスが、群衆の歓呼を浴びてこのエルサレムの町に入って来た。
その神殿では、大司祭カヤパの下、聖職者や知識人などで成り立つユダヤの元老院の議会が招集されていた・・・

大司祭カヤパと衆議所員たちは、群衆の人波を見て、自分たちの権勢がイエスによって奪い取られるかもしれないと考える。
そのイエスが、群衆を前に真理を説く。
狼狽し、自分たちの地位を守るためにイエスを貶めようと策略するカヤパたち。
民衆の暴動を扇動した罪での告発。

ただし、自分たちに死刑を処する権利がないカヤパたちは、ローマから派遣されている総督ピラトを利用しようとする。
それには、まずイエスを捕えなければならない。
イエスの弟子ユダを買収する大司祭たち。

よく知られた話が、福音書に沿って進み、ついには十字架を背負ったイエスがゴルゴタの丘へ上がって行く。
そして、その後のイエスの復活。

デュヴィヴィエの宗教的作品は、サイレント時代(サイレント作品は未輸入のため未見)にもあるが、やはりめずらしい。
調べてみると、この作品は宗教団体からの依頼で制作され、依頼主の満足のゆく成果をあげたという。

実際、観た感じはキリスト教信者でなくても、一般的に知っている内容が興味深く進み、面白い。
特に、群衆の叫びと、それに付随するイエスへの憎悪を伴った力学的な圧力。
そもそも最初、群衆はイエスを歓迎していたはずである。
それが、大司祭カヤパたちが買収を絡めて群集心理を操作する。

イエスは、ローマ総督ピラトの所へ連行される。
ピラトは、イエスを死刑にするだけの根拠をもたないと考え、判断をガリラヤの太守ヘロデ王に任せる。
しかし、ヘロデも判断を拒否し、イエスをまたピラトに送り返す。
ピラトはその後の自分の地位も打算し、イエスの死罪を要求する群衆に応えて磔刑を宣する。
まさしく、政治的である。

自分の権力が脅かされると考え、異にする考えを持つ者を抹殺しようとする大司祭カヤパ。
扇動者、夢想家、くだらない妄想家とイエスにレッテルを貼り、巧妙に民衆を扇動する。
このような物語をみていると、遠い昔のことではなく、今現在に繋がっている話ではないのか、そんなことも考えさせられる作品であった。
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ルネ・クレール・10〜『夜ごとの美女』

2017年11月16日 | 1950年代映画(外国)
『夜ごとの美女』(ルネ・クレール監督、1952年)を観て。

貧しい音楽教師のクロードは、部屋で作曲しても、カフェに行っても、学校で授業しても、雑音に悩まされたりして落ち着かない。
そればかりか、小さな子のピアノ・レッスンでは居眠りをしながら夢を見る。
家に帰れば、今度はピアノの滞納料金を責められたりする。

そんな世の中の喧騒に嫌気を感じているクロードは、ベッドで見る夢が唯一の癒しとなり・・・

眠るごとに見る彼の夢は、それぞれ美女が登場しては消える冒険の数々。

1900年の夢では、貴婦人エドメに好意を持たれ、オペラ座の支配人が彼のオペラ上演を約束してくれる。
1830年のアルジェリア征伐の夢では、ラッパ手になってアラビアのレイラ姫に愛される。
ブルボン朝、ルイ16世の時代のフランス革命時の夢では、貴族の令嬢シュザンヌと恋をささやく。

クロードにとって夢の世界は、いいことずくめ。
でも、その肝心のところで現実の騒音が夢を破る。
おまけに隣人の友人たちは、神経質になったクロードが自殺するのではないか、と心配して寝させまいとする。
クロードがそれをどうにか振り切り、やっと眠りにつけば、その夢の中で今度はひどい目にあってしまう。
そうなるとクロードは、眠らないように必死の努力が必要になる。

いずれにしてもラストでは、恋人になる女性はすぐ近くにいたし、作曲も認められ成功し、めでたしめでたし。

ルネ・クレールの作品は、ユーモアがたっぷりあって、終いには幸福感も味わわせてくれて、それでいて中身をピシャリと押えている。
いつもいつも、さすがである。
特に今回は、ヒロインだけでも美女が3人も出てきて楽しいし、うっとりする。
その中でも“ジーナ・ロロブリジーダ”は、この作品と『ノートルダムのせむし男』(ジャン・ドラノワ監督、1956年)を観た中学の頃から強い印象のある好きな女優。
それから、もう一つ忘れてならないのは、主人公が“ジェラール・フィリップ”であるということ。
このような美男美女のこともさることながら、この作品の後半以降のテンポの良さがまた心地よい。
だから、繰り返し何度観ても飽きが来ない優れた映画だなと思っている。 
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・3〜『地の果てを行く』

2017年11月14日 | 戦前・戦中映画(外国)
『地の果てを行く』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督1935年)を観た。

夜明け前、パリの聖バンサン街で殺人事件を犯したピエール・ジリエトは、バルセロナに逃亡してきた。
しかし、バルセロナの酒場で、全財産と身分証明書が入っている財布を盗まれてしまう。
困り果てた彼は、スペイン外人部隊に応募し、そこで同国人のミュロとリュカと知り合う。

入隊合格した彼らは、ほかと一団となって駐屯地モロッコへ渡った。
駐屯地での生活が始まると、なぜか金のあるリュカが、徐々にジリエトに付きまとい出してくる。
ジリエトは、自分の秘密を彼が知っているのではないかと疑い始め・・・

人それぞれ過去の秘め事があっても、無条件に受け入れてくれる外人部隊。
無一文のジリエトが、それこそ新天地のつもりで入った外人部隊なのに、何かと気になるリュカがいる。
物語は、ジリエトのこの気持ちを底辺として、じんわりと外人部隊の様子も明かされていく。

リュカとは部隊を分けてもらい、砂漠の奥地へ転任するジリエト。
そして酒場で知り合った、現地の踊子アイシャと恋に落ちて結婚するジリエト。
この結婚に仲間たちも祝福してくれるが、この地にまたもやリュカのいる部隊がやって来る。

果たして、リュカにとってジリエトは真の殺人犯なのか。
そして、ジリエトからすると、リュカは本当にパリ警察の密偵か。

その真相がわかった時に、原住民の蜂起が起きる。
それを防ぐために24名の決起隊が募られ、荒涼とした丘の上の砦にジリエトもミュロもリュカもたてこもる。
地獄と化した砦で、最後に残ったジリエトとリュカ。
リュカがジリエトに人間としての連帯感を示す。
しかし援軍が来た時に残っていたのは、ただの一人だけであった。

外人部隊を舞台にした映画で、すぐに思い出すのは『モロッコ』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、1930年)と『外人部隊』(ジャック・フェデー監督、1933年)。
それぞれ、作品としての味わいは当然あるが、外人部隊そのものを見た場合、この『地の果てを行く』が一番実感として湧くのではないか。
一応戦争も背景にし、恋愛を絡めたこのような作品を観ると、戦争の悪しさは別としての人間のドラマが鮮明に浮かび上がってくる。
そしてラストの究極の場面での、リュカがジリエトに友情を示す握手。
そのリュカの感情を思い浮かべる時、この作品が時代を超えた秀作のひとつであることに納得する。
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・2〜『白き処女地』

2017年11月12日 | 戦前・戦中映画(外国)
『白き処女地』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1934年)を観る。

舞台は、カナダのケベック地方のある村。
そして、そこのフランス系住民の開拓者たち。
原始林に囲まれて暮らしているシャプドレヌ家にとって、唯一の楽しみは村に出かけて行くこと。
ある日、シャプドレヌが村に出かけた時、出稼ぎから戻ってきたフランソワと出会う。
フランソワは、彼の娘マリアが美しくなっているのを見て、心を惹かれる。

そして、マリアに愛を打ち明ける。
今までの無頼の生活を改めて、山の仕事で資金を貯え来年春には戻ってくるので待っていてほしいという。
マリアは、フランソワのその言葉に素直に頷き・・・

人里離れたシャプドレヌ家のマリアに、フランソワ以外に二人の男が思いを寄せる。

一人は、祭の頃にシャプドレヌ家を訪れた、都市人のロランゾ。
そのロランゾは、一緒に大都市へ行って暮らそうとマリアを誘う。
もう一人は、マリアの家の近くに小屋を建てて、原始林を切り開いている青年ユトロープ。
ユトロープは、内気で自分の思いを素直に打ち明けることができない。

フランソワは、原始林の中へ夏場の仕事を求めて入って行き、やがて厳しい冬が雪の中にすべてを閉じ込める。
年も押し迫った日、フランソワはマリアへの思いが募り、危険だと言う仲間の制止を振り切り、一人歩いて故郷に向かう。
そして吹雪の中、とうとう命を落としてしまう。

観ている方の期待としては、まさか主人公が死んでしまうとは思わず、ビックリ。
そう言えば、フランソワ役のジャン・ギャバンが有名になっていくのが、翌年の『地の果てを行く』(同監督、1935年)辺りだから、こういうのも有りかと思う。

その死を知って、ショックを受け落胆するマリア。

その後の、ロランゾから改めての結婚の申し込み。
そして、ユトロープからの告白。
悩むマリアが選んだ先は?

この作品は、一女性に対する三人の男の愛の告白みたいな物語になっているが、それより重要なのが、カナダにおけるフランス人入植者の思いということ。

映画は、夏が短く、冬が長いカナダの厳しい自然の中で、入植者の生活を詩情豊かに描き、家族の一体感も漂わせている。
そんな中で、マリアの母が亡くなり、葬儀で牧師が説教する言葉。
“我々は、フランスからこの地に来て300年になるが、外国人たちは言うだろう、この人々は滅びを知らない人種なのかと。
私たちは先祖が暮らしたこの土地に留まなければいけない。、子供たちに伝えるべき掟のためにも”

この牧師の言葉で、マリアは決心する。
母のように、この地に根付いていこうと。
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ジュリアン・デュヴィヴィエ・1〜『商船テナシチー』

2017年11月10日 | 戦前・戦中映画(外国)
『商船テナシチー』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1934年)を久し振りに観た。

映画を観た後で、働き口のないバスチアンは親友セガールに、カナダへ行ってひと旗あげようと誘う。
パリから船の出る港に来て、その気の二人は宿から繰り出し、故国での最後の夜を飲んで歌って踊った。
翌朝、いよいよ船が出る。
宿のウェイトレス、テレーズに見送られて出航した二人は、皮肉にも船が故障して、また元の所に引き返してきて・・・

船が直るまでの期間ふたりは、テレーズがいる宿にもう一度、落ち着く。
そして一時の仕事にも就くが、ふたりのテレーズに対する、微妙な関係が生じ出す。
実は、快活なバスチアンも、内気なセガールも、共に、別々にテレーズを愛するようになっている。

こうなると、友情を挟んだややこしい三角関係が生じてくる。
積極的なバスチアンはモーションを掛け、テレーズもその気になり、要は相思相愛となる。
片や、内気なセガールはテレーズに自分の想いを告白する勇気がない。

船の修理が終り、明日は出港という日。
バスチアンは、テレーズとの仲をセガールに打ち明けることができない。
そして、バスチアンとテレーズを乗せた汽車は、パリへ走る。

すべてを知ったセガールは、ひとりテナシチー号に乗り組む。
船が鋭く汽笛を鳴らす。
セガールにとっては、この汽笛はすべての決別。
その思いを込めて、旅立つセガール。

自分の若かった頃を思うと、セガールの気持ちがひしひしと胸にせまり、恋に破れた時のやるせなさが身にしみる。
そんなことを自然に思い浮かばせる愛着のある作品である。
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ルネ・クレール・9〜『リラの門』

2017年11月08日 | 1950年代映画(外国)
『リラの門』(ルネ・クレール監督、1957年)を観た。

仕事もせず、なじみのビストロで酒に溺れる中年男ジュジュは、友人の“芸術家”の家に逃げ込んだ、警官殺しの逃亡犯ピエロ・バルビエをかくまることになる。
無為の日々を送っていたジュジュにとって、ピエロの世話を焼くことが新たな目的となる。
逃亡の機会をうかがいつつ、“芸術家”の家に潜伏するピエロは、ジュジュがひそかに惚れているマリアにみつかってしまい、彼女を誘惑する。
マリアはピエロに夢中になり、彼と共に逃亡しようとするのだが・・・
(DVDのパッケージ裏より)

舞台は、パリ北東部の下町「ポルト・デ・リラ」。
酒飲みだが、お人好しで人情家のジュジュ。
それと、ギターの弾き語りの“芸術家”のコンビ。

ジュジュは相手が凶悪犯でも、“芸術家”の家の地下室に匿いながら、甲斐甲斐しく食べさせ逃亡計画を手伝おうとする。
“芸術家”はちょっと迷惑な感じで、やっぱり早くこの家から逃亡して行ってほしいと思う。
そんな二人が一致していることは、犯人を警察に突き出す気はないこと。
その辺りがまさしく、人情物語での低音主題といったところか。

そこにビストロの娘マリアが絡んでくる。
ジュジュは金持ちになったら、マリアを南仏に連れて行こうと夢みている。
マリアも「行きたいな」と、素直にそこへ行くことに憧れている。
恋人というわけではないが、中年の男と若い女の、信頼し合っている貧しいもの同士の間柄にほろりとさせられる。
特に、マリア役の“ダニー・カレル”が、下町の娘の雰囲気を余すところ表していて、ジュジュの思いがすんなりと納得できる。

そのマリアを騙しながら、ひとり南米へ逃亡を図ろうとするピエロ。
だからラストの、ピエロが彼女を玩んでいただけと分かった時の、ジュジュのピエロに対する怒りが痛いほどよくわかる。
だが、マリアにとっては深い傷を負うだろうでは済まされない、残酷さが痛々しい。
そして、ジュジュにしても。

私にとってこの映画は、十代の頃に観た中でも印象が特に鮮明なままの作品である。
最初に目に浮かぶのが、最初と最後の“老夫婦が荷車を引いて画面を横切る”箇所の何気ないシーン。
そんなこともあって、観ているルネ・クレールの内では、この『リラの門』がベスト・ワンの作品と思っている。
それを久し振りに観たので、懐かしさと感慨、そして新たな感動でいっぱいである。
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