『マッチ工場の少女』(アキ・カウリスマキ監督、1990年)を再度観た。
ヘルシンキの場末。
イリスは、母と義父の三人で暮らす冴えない年頃の女性。
マッチ工場に勤めているが、親は彼女の収入をあてにして働かず、家事までさせる始末。
たまに化粧をしディスコに行ってみたりもするが、誰からも声をかけて貰えない。
給料日、イリスはショーウィンドーで見かけた派手なドレスを衝動買いする。
親に咎められ返品を命じられるが、かまわずドレスを着てディスコに行くと、アールネという男に声をかけられる。
一流企業に勤める彼の豪華なアパートで一夜を共にする二人。
アールネに惚れ、さらなるデートを取り付けようとするイリス。
自宅へ招き両親にまで会わせるが、あの夜のことは遊びだったとアールネは告げる。
後日、妊娠していたことを知ったイリスは、一緒に子供を育てるようアールネに手紙を書く。
しかし返事は、小切手と中絶を求める短い言葉だけだった。
放心して町へさまよい出たイリスは、クルマにはねられ流産してしまう。
さらに追い打ちをかけるように、義父からは母に心労をかけたと勘当される。
兄のアパートに転がり込み、途方に暮れるイリス。
やがて意を決した彼女は、薬局で殺鼠剤を購入し・・・
(Wikipediaを一部修正)
アキ・カウリスマキ作品を初めてこの『マッチ工場の少女』で知って、あれからもう30年以上になる。
記憶も朧気になっているので、もう一度DVDで観ることにしてみた。
固定されたカメラワークの中での変化の少ない人物の動き。
それに伴う最小限の会話。
要は、対象となる画面の中の人物を見ながら、今何を思い考えているのかを観客に想像させること。
そのことを30数年前に観たとき、それまでに見たことがない手法に驚きと戸惑いを覚えた。
だがそれ以降慣れ親しんでしまった今観ると、成る程と違和感を全く感じない。
それにしてもこの作品、あのカウリスマキのとぼけた感じのユーモアが一切なくって、へぇと思った。
ただ、背景のテレビ画面から中国の天安門事件の映像が映し出されていたりすると、それに対してのメッセージはないのだけれど言わんとする主張が読み取れる。
声高には言わないけれど、常に社会の出来事を意識すること、そのことが作品の中にない交ぜとなって表われる。
ラスト、マッチ工場でいつも通り働くイリスの元に、二人の刑事がやって来てイリスを連れていく。
この場面に関連して、なぜかフゥッと自然に思い出されるのが、『太陽はいっぱい』(ルネ・クルマン監督、1960年)のラストだった。
ヘルシンキの場末。
イリスは、母と義父の三人で暮らす冴えない年頃の女性。
マッチ工場に勤めているが、親は彼女の収入をあてにして働かず、家事までさせる始末。
たまに化粧をしディスコに行ってみたりもするが、誰からも声をかけて貰えない。
給料日、イリスはショーウィンドーで見かけた派手なドレスを衝動買いする。
親に咎められ返品を命じられるが、かまわずドレスを着てディスコに行くと、アールネという男に声をかけられる。
一流企業に勤める彼の豪華なアパートで一夜を共にする二人。
アールネに惚れ、さらなるデートを取り付けようとするイリス。
自宅へ招き両親にまで会わせるが、あの夜のことは遊びだったとアールネは告げる。
後日、妊娠していたことを知ったイリスは、一緒に子供を育てるようアールネに手紙を書く。
しかし返事は、小切手と中絶を求める短い言葉だけだった。
放心して町へさまよい出たイリスは、クルマにはねられ流産してしまう。
さらに追い打ちをかけるように、義父からは母に心労をかけたと勘当される。
兄のアパートに転がり込み、途方に暮れるイリス。
やがて意を決した彼女は、薬局で殺鼠剤を購入し・・・
(Wikipediaを一部修正)
アキ・カウリスマキ作品を初めてこの『マッチ工場の少女』で知って、あれからもう30年以上になる。
記憶も朧気になっているので、もう一度DVDで観ることにしてみた。
固定されたカメラワークの中での変化の少ない人物の動き。
それに伴う最小限の会話。
要は、対象となる画面の中の人物を見ながら、今何を思い考えているのかを観客に想像させること。
そのことを30数年前に観たとき、それまでに見たことがない手法に驚きと戸惑いを覚えた。
だがそれ以降慣れ親しんでしまった今観ると、成る程と違和感を全く感じない。
それにしてもこの作品、あのカウリスマキのとぼけた感じのユーモアが一切なくって、へぇと思った。
ただ、背景のテレビ画面から中国の天安門事件の映像が映し出されていたりすると、それに対してのメッセージはないのだけれど言わんとする主張が読み取れる。
声高には言わないけれど、常に社会の出来事を意識すること、そのことが作品の中にない交ぜとなって表われる。
ラスト、マッチ工場でいつも通り働くイリスの元に、二人の刑事がやって来てイリスを連れていく。
この場面に関連して、なぜかフゥッと自然に思い出されるのが、『太陽はいっぱい』(ルネ・クルマン監督、1960年)のラストだった。