ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

アキ・カウリスマキ・6~『マッチ工場の少女』

2024年01月27日 | 1990年代映画(外国)
『マッチ工場の少女』(アキ・カウリスマキ監督、1990年)を再度観た。

ヘルシンキの場末。
イリスは、母と義父の三人で暮らす冴えない年頃の女性。
マッチ工場に勤めているが、親は彼女の収入をあてにして働かず、家事までさせる始末。
たまに化粧をしディスコに行ってみたりもするが、誰からも声をかけて貰えない。

給料日、イリスはショーウィンドーで見かけた派手なドレスを衝動買いする。
親に咎められ返品を命じられるが、かまわずドレスを着てディスコに行くと、アールネという男に声をかけられる。
一流企業に勤める彼の豪華なアパートで一夜を共にする二人。

アールネに惚れ、さらなるデートを取り付けようとするイリス。
自宅へ招き両親にまで会わせるが、あの夜のことは遊びだったとアールネは告げる。

後日、妊娠していたことを知ったイリスは、一緒に子供を育てるようアールネに手紙を書く。
しかし返事は、小切手と中絶を求める短い言葉だけだった。
放心して町へさまよい出たイリスは、クルマにはねられ流産してしまう。
さらに追い打ちをかけるように、義父からは母に心労をかけたと勘当される。

兄のアパートに転がり込み、途方に暮れるイリス。
やがて意を決した彼女は、薬局で殺鼠剤を購入し・・・
(Wikipediaを一部修正)

アキ・カウリスマキ作品を初めてこの『マッチ工場の少女』で知って、あれからもう30年以上になる。
記憶も朧気になっているので、もう一度DVDで観ることにしてみた。

固定されたカメラワークの中での変化の少ない人物の動き。
それに伴う最小限の会話。
要は、対象となる画面の中の人物を見ながら、今何を思い考えているのかを観客に想像させること。
そのことを30数年前に観たとき、それまでに見たことがない手法に驚きと戸惑いを覚えた。
だがそれ以降慣れ親しんでしまった今観ると、成る程と違和感を全く感じない。

それにしてもこの作品、あのカウリスマキのとぼけた感じのユーモアが一切なくって、へぇと思った。
ただ、背景のテレビ画面から中国の天安門事件の映像が映し出されていたりすると、それに対してのメッセージはないのだけれど言わんとする主張が読み取れる。
声高には言わないけれど、常に社会の出来事を意識すること、そのことが作品の中にない交ぜとなって表われる。

ラスト、マッチ工場でいつも通り働くイリスの元に、二人の刑事がやって来てイリスを連れていく。
この場面に関連して、なぜかフゥッと自然に思い出されるのが、『太陽はいっぱい』(ルネ・クルマン監督、1960年)のラストだった。





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アキ・カウリスマキ・2~『白い花びら』

2022年06月19日 | 1990年代映画(外国)
『白い花びら』(アキ・カウリスマキ監督、1998年)を観た。

フィンランドの小さな村でキャベツを作る幸せな夫婦、ユハとマルヤ。
ある日、村にシェメイッカと名乗る男が車で通 りかかる。
車が故障したという男は畑にいたユハに助けを求め、ユハは快く車の修理を引き受ける。
しかしシェメイッカは隙を見てはマルヤを誘惑、マルヤも彼を強く意識するようになる。
再びシェメイッカが2人を訪れ、マルヤはシェメイッカと駆け落ちするが、2人が結ばれたあとシェメイッカの態度は豹変し・・・
(映画.comより)

ユハとマルヤの夫婦は、田舎に住んでいてもキャベツを作り売っては、手を取り合って子供のように幸せに暮らしている。
そんな中、偶然にも通りすがりの男、シェメイッカのオープンカーが故障してしまう。
親切なユハは車の修理を請け負って、その日はシェメイッカを家に泊めてやる。

シェメイッカはダンディぽいが、クセがありそうで強引そうな男。
このシェメイッカが、一緒に飲んでいたユハが泥酔した隙にマルヤを口説く。
マルヤにはユハとの幸福な家庭がありその気はないが、翌日シェメイッカが行ってしまうと、胸騒ぎがする。
そうなるとユハとの、この田舎での二人だけの生活が段々と侘しくなってくる。

さあこうなると、よくある話の行き着く手順。
次にシェメイッカが来た時、マルヤは置き手紙を残してシェメイッカに付いて行ってしまう。

ヘルシンキのシュメイッカが経営し、用心棒もいるようなクラブ。
ホステスたちと共に働かされたマルヤは、お客のふるまいに戸惑って客を拒否する。
部屋に戻って、軽率に家を出た行為を後悔するマルヤ。ユハとの幸せだった結婚式が思い出される。

それ以後、マルヤはホステス達らの部屋を掃除する日々。
意を決したマルヤは、村へ帰ろうと列車に乗り込むが、運悪く気絶する。
結果は、懐妊していたということ。

時は秋になり、年が明けて雪解けの季節。
マルヤは赤ちゃんを抱き、片や、マルヤに逃げられて悶々としていたユハは、とうとうシェメイッカに対し復讐を誓う。
ユハは斧にヤスリを掛け、ストーリーはクライマックスになって行く。

この作品は、意識して白黒画面のサイレントとして作られている。
もっとも、全体を通して場面にマッチした音楽が付いているので、サイレントとはほどんど意識しない出来になっている。
と言うか、カウリスマキ作品はいつもセリフを極端に抑えているので、違和感はない。
ストーリーは、それこそサイレント時代の雰囲気を醸し出すためか単純である。
でもそれが、無茶苦茶面白かったりした。
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アキ・カウリスマキ・1~『コントラクト・キラー』

2022年06月16日 | 1990年代映画(外国)
『コントラクト・キラー』(アキ・カウリスマキ監督、1990年)を観た。

ロンドンで暮らす孤独なフランス人アンリは、長年務めた職場をあっさり解雇されてしまう。
絶望して自殺を図るもことごとく失敗した彼は、ギャングのアジトを訪れて自分自身の殺害を依頼する。

死を待つアンリだったが、パブで花売りのマーガレットに出会って恋に落ち、生きる希望を取り戻す。
しかし、殺し屋はすでに差し向けられていて・・・
(Wikipediaより)

人付き合いもしない内向的な孤独な男、アンリ。
これをジャン=ピエール・レオが演じる。
ジャン=ピエール・レオと言えば、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』(1959年)から始まって、
ジャン=リュック・ゴダール監督の作品などで馴染みの俳優。
その彼が無口ながら味わい深い演技をする。
もっともアキ・カウリスマキの作品自体、他の作品を観てもセリフが極端に少ない。

そんなアンリが人生に絶望して自殺しようとする。
しかし、そんなにうまくは死ねない。
だから、しょうがなく自分に対する契約殺人を依頼する。
しかしどっこい、日も経たず、バラ売りの女性マーガレットを見て一目ぼり。
さあ、困った、死ななきゃいけない自分が生に生きがいを見いだしてしまう。

とぼけた味わいが全体の雰囲気を作る中で、最後には生きる素晴らしさをほのぼのと肯定する、その作りの素晴らしさ。
だからその雰囲気に漂っていたい為に、二度DVDで観てしまい、本当にいい作品だなと手放しで余韻に浸った。

フィンランドのアキ・カウリスマキ作品は、『マッチ工場の少女』(1990年)が評判になった時、劇場に観に行った。
その独特な作風に“へぇ”と思ったが、次に観た『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989年)には、凄いとのめり込んだ。
以来この監督作品には意識していたが、所詮、たくさんの見落としがあって、今回を機にもっと観ていこうと思っている。

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『レディバード・レディバード』を再度観て

2021年02月07日 | 1990年代映画(外国)
一連の傑作揃いのケン・ローチ作品の中でも、特に強烈な印象を受けた『レディバード・レディバード』(1994年)を再度観てみた。

生活のためバーで歌っているマギーの店にスペイン系のジョージが訪れ、彼はマギーの魅力に惹かれる。
ジョージは弱者の権利を守ろうとし、そのために母国パラグアイから亡命した。
そんなジョージにマギーは次第に心を開き、愛する子供たちと離ればなれになったいきさつを話し始める。

マギーは、父親がそれぞれ違う四人の子供と貧しいながらも幸せに暮らしていた。
だが、次の新しい夫サイモンによる暴力に耐えかねて友人の家近くに隠れ住んだが、たまたま留守の時に火事が起き、長男のショーンが重傷を追ってしまった。
これがきっかけとなりマギーは養育能力なしと判決を受けて、今は子供たちと引き離されて住んでいる。

マギーは、ジョージの親身な優しさに心もほぐれ、同居し身籠る。
しかし娘ゾエが生まれると、社会福祉局は彼女の元に赤ん坊を置いておくのは危険と判定し、ゾエをマギーから奪っていった・・・


イギリスは、1989年に「児童法」が制定されて子どもの保護強化がされたという。
そして“子の福祉”を最優先とし“親の責任問題”の名の元で、行政が子どもの保護と親子関係への過度の介入がされてくる。
そのことをケン・ローチは事実の話として映像化する。

マギーは子に安定的な環境を与えられなく、何度も同伴者を変えて子らを暴力の危険にさらした、と判断されるわけである。
そして社会福祉局からの援助も拒否して改善の意思がない、と糾弾される。
裁判は、マギーによる子への面会を禁止し、社会福祉局の養育権を認めたうえで養子縁組を目的とする里親探しを命ずる。
このことによって、マギーは子どものいる家庭を作ろうとしても完全に国から拒否される。

国はいいこと、正しいことを机上論として行っているつもりであっても、個人としての子どもを奪われた親の悲しみや、怒り、絶望は考えない。
体制としての権力とひ弱な個人の在り方についての矛盾を、この作品は鋭く突く。
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『リフ・ラフ』を再度観て

2021年01月27日 | 1990年代映画(外国)
レンタルビデオ店がビデオテープの頃、ケン・ローチ作品が観たくて探したりしていた。
その中のひとつの『リフ・ラフ』(ケン・ローチ監督、1991年)を今回、また観てみた。

刑務所から出所したばかりのグラスゴー出身の青年スティーヴはロンドンに出て、古い病院を豪華アパートに改築する工事現場の職を見つけた。
そこは全国から職を求めてやって来た労働者たちの掃き溜めだった。
スティーヴは、親分風を吹かす現場監督のミックの下でそつなく仕事をこなすシェム、ラリー、モーの三人と打ち解けて仲間となる。
仕事の賃金は安く、労働条件は劣悪だった。

ある日、スティーヴは工事現場にバッグが落ちているのを見つけ、持ち主のスーザンに届ける。
最初はスティーヴを警戒した彼女も次第に打ち解けていく。
場末のパブで歌う彼女は、歌手になるのが夢だった。
スティーヴはラリーたちを誘って彼女の応援に行くが、客席からの野次で歌えなくなった彼女は泣きながら楽屋に駆け込む。
ラリーの機転でライブは盛況のうちに幕を閉じ、その晩スティーヴとスーザンは一夜を共にする・・・
(Movie Walkerより一部掲載)

スティーブは、底辺の労働者が働くビル改築現場の仕事にありつく。
仕事仲間は気のいい連中で、スティーブもすぐに馴染む。
仕事の条件はよくないが、みんな明るい。
そんな中、スティーブが落ちていたバックを見つけ、落とし主の家を訪ねる。
こうしてスティーヴはラリーは知り合う。

ラリーは歌手の夢を持って場末のパブやストリートライブを行うが、観ていて正直言ってヘタ。
そんなラリーは、貧しさもあってか精神的に不安定なところもあり傷つきやすい。
スティーヴとねんごろな仲になっても、二人の間はしっくりとしないと言うかなぜか隙間が漂う。
それでもラリーは、スティーヴと離れたりすることに怯える。

二人の不安定さは、なぜだろうと思う。
ケン・ローチは正面切って、社会ひいては時の政府を糾弾しないが、明らかに彼らの生活の基の根源には国の政策の有り様が絡んでいるのを見据えている。
ただ、そのことを何も画面に出さず、彼らの生活の土台としての仕事の風景を小さな物語として紡いでいく。
それらのことは観ていて自然と、強く共感せざるにはいられない。
なんで、スティーヴとスーザンはその後別れてしまわなければいけなかったのか。
勿論、スーザンの方に負の要素があるにしても二人しての笑顔が見たかったと、しみじみ思う。

「リフ・ラフ」とは最下層の人々を指す蔑称とのこと。
こんな社会は、少し前のイギリスの話とのんびりと構えていることは出来ず、今の日本でも同じ状態ではないかと憂慮する。
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『ポン・ジュノ アーリーワークス』を観て

2020年01月02日 | 1990年代映画(外国)
ポン・ジュノ監督のカンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『パラサイト 半地下の家族』が今月10日から上映されるのを機に、
DVD題名『ポン・ジュノ アーリーワークス』を観てみた。

このDVDには同監督の初期短編が収録されている。
延世大学社会学科を卒業後の自主制作作品『白色人-White Man-』(1993年)。
韓国映画アカデミー在籍中の課題制作『フレームの中の記憶たち』(1994年)、『支離滅裂』(1994年)の3作品である。

『白色人-White Man-』
朝、窓を開けてタバコを吸っていた男は金魚鉢を見、そこから金魚を掴み出してタバコの火を押しつけようとした。
その後、出勤するため駐車場に行った男は、車の横に落ちていた“指”を見つけ、拾う。
職場に着いた彼は、人に見つからないようにひっそりと、キーホルダーに入れた“指”を大事そうに慈しむ・・・

『フレームの中の記憶』
少年が学校から帰って来ると、開いている黒い大きな門から見えている犬小屋の中に、いるはずの“パンウル”がいない。“パンウル”を探す少年。
少年は“パンウル”の名を呼びながら野原も探す。犬の鳴き声がどこからか聞こえて来る。
夜、寝ている少年は犬の鳴き声で目を覚まし、2階から下りて暗闇の中を“パンウル”を探しに行く。机の上の“パンウル”の写真。
翌日、黒い門を開けて少年は学校に行きかけたが、もう一度戻り、閉めた門を開けたままにして行く。門の向こうに見える犬小屋。

『支離滅裂』
・エピソード1 ゴキブリ
研究室でヌード写真集を見て楽しんでいた教授は、授業時刻がギリギリなっっていて急いで教室に行く。
講義をし出したら、うっかり資料を忘れてきたのに気付き、入口近くにいた女学生のキムに取りに行かせた。
キムが出て行ってから教授は、研究室の机の上にヌード写真集を置いてきたのを思い出し、慌ててその後を6階まで追いかけ・・・

・エピソード2 朝の路地
新聞社の論説委員は、朝、ジョギングしながら、他人の門に置いてある牛乳を勝手に飲むのを習慣にしている。
丁度、新聞配達の青年が来たので、論説委員はその家の主人のふりをし、青年にも牛乳を渡し走り去る。
青年が飲んでいると、門の中から夫人が出てきて怒り、新聞の解約を言い渡す。
めげた青年が再び家々に新聞を入れて行くと、路地で、走っている論説委員とバッタリ出くわし・・・

・エピソード3 最悪な夜
宴会場から出て、部下が送ると言うのを断った検事はタクシーで帰ろうとする。
だがタクシーは捕まえずバスに乗る。
酔っている検事は眠りから覚め、途中でバスから降りる。
またタクシーを拾おうとするがままならず、そうこうするうちに便意をもよおす。
我慢が出来ず公園の建物の陰でしようとしたら、管理人に見つかってしまい・・・

・エピローグ
テレビ番組の「明日を診断する緊急討論」。テーマは現代社会の道徳性。
出演しているのは、延世大学心理学科のキル教授と朝鮮日報の論説委員のホ氏。それに西区支庁のピョン検事。
3人が社会問題に関して真面目に対談を行っている・・・

3作品を観てみると、『白色人-White Man-』の、ぎっしりとひしめく貧困街の家々の向こうにそびえ立つ高層マンションの風景が印象的で納得する。
『フレームの中の記憶』は、「伝えたいことを5ショットで表現する」という課題の、少年と愛犬との離別を5分間でまとめた作品が成る程と思う。
そして『支離滅裂』、“情けない男”のブラックユーモアが、後の優れた作品群のニュアンスを連想させて感心させられる。
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『ジャック・ドゥミの少年期』を観て

2019年07月25日 | 1990年代映画(外国)
『ジャック・ドゥミの少年期』(アニエス・ヴァルダ監督、1991年)を観た。

1939年、フランス西部の港町ナント。
ここで生まれ育ったジャコ(ジャックの愛称)は8歳。兄弟には弟のイヴォンがいる。
父は自動車修理工場を営み、母は髪結いをしていて、他に祖母もいる。
家の中では母の歌声が流れ、家族は幸せに満ち、よく映画も観に行ったりする。

ジャコは、「白雪姫」や「シンデレラ」に影響されて操り人形を作り、それを人形劇にして夢中になる。
しかし、バレエを習っている向かいの家の少女レーヌは、一緒に曲芸ショーで世界巡業をしようと、踊れないジャコに言ったりする。

第二次大戦が迫ってきて、ジャコの父にも徴用令がくる。
街にはドイツ兵の姿が現れるようになり、ジャコとイヴォンも田舎へ疎開させられる・・・

世の中がきな臭くなり、それでも基本的には少年ジャコの生活にはあまり影響がない。
だが、人の死をまともに目にして、ジャックはそれ以後、暴力を憎むようになる。

ジャックの少年期は、人形劇や映画を観て育ち、それが嵩じて、疎開先で小型の手動映写機とフィルムを借りて、家庭映写会をしたりする。
その内それでは、段々物足りなくなり、中古品店でたまたま見つけた素人向けの映画用カメラが気に入り、自分の大事な物と交換し手に入れる。

ジャックはそのカメラを使い、友達たちを役者として監督まがいのことをする。
しかし、現像したフィルムには何も写っておらず、失敗してしまう。
技術が必要だと感じたジャックは映画学校に行きたがるが、父親は強く反対する。

ジャックは、今度はアニメ作品を作ろうとし、段ボールで人形をこしらえ、一コマ一コマ撮影していく。
その作業は大変で、新しいカメラも欲しくなり、母親にねだってみると買ってもらうことができた。
片や、父の意向で通っている職業学校は大嫌いで、思いはいつも映画にある。
ある日、先生が家に来て「映画熱の度が過ぎているので、熱をさました方がいい」と母親に言う。
それでもジャックは、屋根裏の部屋でコツコツと映画作りの作業に熱中する。

何としても映画の道を立ち切れないジャックは、映画館の支配人に、この短編アニメの作品を見てもらう。
偶然、自分の作品上映のために来た著名な監督クリスチャン=ジャックも、空き時間にジャックの作品を見、誉める。
そして、映画を続けるように、と勇気づける。
そう言われた父親は、やっと折れて、ジャックをパリに行かせることに同意する。
ジャックは、晴れて「写真映画技術学校」へ入学することになった。

このような“ジャック・ドゥミの少・青年期”に基づく作品を、妻のアニエス・ヴァルダが監督する。
その映像は、大雑把に言えば、ジャックの過去がモノクロ、幼い頃を思い出しながら書くドゥミの現在や実作品の挿入部分はカラーとなっている。

<ジャコを演じた子役たちとジャック・ドゥミ、後ろにアニエス・ヴァルダ>


この作品で印象深いのは、過去の実際のエピソードとか場所が、ジャック・ドゥミの作品に色濃く反映されていることを示唆し、そのシーンを映し出している箇所である。
映画の中の当時59歳のジャック・ドゥミは、この後で亡くなることを思うと、その表情の弱々しさが納得される。
それと対比するように、この少年期からの映画に対する想いは輝きに満ちていて、将来に向かっての希望があふれている。

<ジャック・ドゥミと、妻のアニエス・ヴァルダ>


この作品を観ると、ジャック・ドゥミに一層の興味が沸き立ち、他の作品ももっと観たくなってくる。
ただ残念なことは、妻アニエス・ヴァルダも今年90歳で亡くなってしまった。
だが、ヌーヴェルヴァーグの中で重要な位置を占めている二人の名は、いつまでも失われることはない。

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『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』を観て

2017年08月17日 | 1990年代映画(外国)
前回の『ロッタちゃん はじめてのおつかい』(1993年)が面白かったので、続いて『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』(ヨハンナ・ハルド監督、1992年)も早速借りてきた。

スウェーデンの小さな町ヴィンメルビーに住むニイマン家は、パパとママ、長男のヨナスと長女のミア、そして末っ子のロッタの5人家族。
ある雨の朝、ヨナスとミアが買い物に出かけることに。
風邪をひいたロッタは、ママから外出禁止を言い渡されるが、ママに内緒でレインコートを着て雨の中へ飛びだしていく・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

行った店からの帰り、ロッタは風邪をひいているのに、大きな水たまりを思いっきり長靴でバシャバシャ。

翌日は、湖のある静かな森へ家族そろってのピクニック。
楽しいはずの釣りで、針にかかったのがロッタが大事にしている縫いぐるみのバムセだけ。
釣りにあきた子供たち、今度は、ふざけていたヨナスが湖に落っこちて大騒ぎ。
必死なヨナスと助けるパパを見て、それが滑稽だとロッタは大笑い。

この後、誕生日にロッタが自転車を欲しがるエピソード。
親の実家の田舎に行って、小さいくせに強情なところがいっぱいのロッタと、祖父母を交えてのエピソード。

これが子供から見た、なまの生活状況だろうな、そおそお絶対にそうだと、ニンマリしながら納得してしまう。
例えば、ママがロッタに早く寝なさいと叱れば、「ママは変、夜は眠くないのに寝なさいというし、朝は眠いのに起きなさいという」と口答えする。
こんな、ロッタの感性、これが本当の幼児の感情だと、クスクスしながらどこまでも頷きっぱなし。
それにロッタって、聖書を読んでくれる祖母に向かっても、「そんな事を言っちゃダメ!地獄って、悪い言葉よ」と言ってしまうし子だし。

この作品が児童向き映画だとしても、児童だけでは勿体ないいっぱしの大人向けの映画でもあって、時代に左右されないこのような作品は常に必要だなとつくづく思う。
なお、封切りの関係で、前回の『ロッタちゃん はじめてのおつかい』が第一作のように思えても、こちらが先であったことを添えておきたい。
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『ロッタちゃん はじめてのおつかい』を観て

2017年08月14日 | 1990年代映画(外国)
昨日観た作品が期待外れだったので、口直しとして『ロッタちゃん はじめてのおつかい』(ヨハンナ・ハルド監督、1993年)を借りた。
これもズッコケ作品だったら今後、もう幼児主演作は絶対観ないと決めながら観てみた。

5歳のロッタちゃんはママとパパ、お兄さんのヨナスとお姉さんのミアの5人家族のニイマン家の次女。
ある朝、セーターがチクチクするのでハサミで切り刻んでしまっていつものようにご機嫌ななめなロッタちゃん。
気まずいのでお隣のベルイおばさんのところへ家出して物置の2階でひとり暮らしを宣言。
家族の元にも帰らない決心をした彼女だが、やっぱりお化けが出そうで心細くなったところでパパが迎えにきた・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

上のあらすじが、最初のエピソード。
その後、クリスマスの日に肝心なツリーがない事や、表題の、ベルイおばさんのお使い。
そして復活祭のロッタの行動など。

上の兄妹二人に感化されてか、ロッタはちょっとオシャマなところもあるけど、そこはやはり所詮、子供。
幼いながらも一生懸命に考えている、生活空間としての日常のおこない。
そのことが微笑ましく、周囲の人たちの生活も滲み出て、成程と感心してしまう。
そればかりか、この作品の作り自体が自然ですがすがしい。

この作品は元が、児童文学。
原作者は、スウェーデンの“アストリッド・リンドグレーン”。
私としては、『長くつ下のピッピ』ぐらいしか著者の作品を読んでいない。
それでも、『やかまし村の子どもたち』(ラッセ・ハルストレム監督、1986年)と『 やかまし村の春・夏・秋・冬』(同監督、1987年)を随分前に観て、馴染みはある。
知っている数少ない児童映画の中で、印象が残る作品がひとつ増えたことに感謝している。
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『ポネット』を観て

2017年08月13日 | 1990年代映画(外国)
たまには、悲しくても心温まるのをと、『ポネット』(ジャック・ドワイヨン監督、1996年)を借りてきた。

プロヴァンスの田舎の村、秋。
交通事故で突然ママを失った4歳の少女ポネットは、パパからそのことを聞かされても、死がまだよくわからないから、泣くこともできない。
とまどうポネットは、人形のヨヨットと一緒に、ママの帰りを待つことにする。
パパはポネットをおばさんに預け、仕事でリヨンに向かった。
年上の従姉妹デルフィーヌとマチアスがどんなに遊ぼうと誘っても、ポネットは庭で、部屋で、一人でママを待ち続ける・・・
(Movie Walkerより一部抜粋)

出だしは良かった。
小さな女の子が、それこそ突然いなくなった母の、いや応なく直面する戸惑いの表情に目頭が熱くなる。
ポネットが従姉弟の家に預けられ、小さいながらもけなげに生きる姿に感動する。
と思いきや、観ていくとどうも様子が違う。

母が死に父も出張でいない、こんな愛くるしいポネットが不幸を背負うって、可哀想でしょう。
母の死を納得できなくても、こんな小さな子が頑張っていますよ。
と、いうような見え透いた作り手の意図が丸見えで、だんだんウンザリしてくる。

幼い子を使って不幸な話をテーマにすれば、ある程度ヒットはする、と考えているいやらしさが丸わかりの作品である。
勿論、それに応えて、感動したという人は相当いるに違いない。
なにしろ、ヴェネチア国際映画祭でこのポネット役の子に、最年少で主演女優賞を受賞させたぐらいだから。

私がこのように否定的な強がりを言っても、正直なところ、正当な評価はできない。
なぜなら、あまりの作り手の意図が丸見えで、途中からDVDを早送りで見たから。

そもそも小さな子に、神様のことを真剣に考えさせる?ということの違和感。
それは、作り手の考えでしょうが。
キリスト、神様のことを子供の視点で考えさせるなら『汚れなき悪戯』(ラディスラオ・バホダ監督、1955年)でも参考にしたらと、言いたくなる。

いずれにしてもジャック・ドワイヨン監督の作品は、以前に『ピストルと少年』(1990年)を観ているが、よく憶えていない。
今回のことがあって、この監督の名はしっかりと憶えておこうと思う、以後、絶対に観ないために。
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